筑後 久留米城
Kurume castle
久留米城跡・有馬記念館・笹山神社【福岡県久留米市篠山町444】
ブリヂストン久留米工場【福岡県久留米市京町105】
【立地】丘城
【別称】久留目城・来目城・篠原城・篠山城・笹原城・雨城
【県指定史跡】
【歴史】永正年間(1504~1521年)、土豪が初めて城を築き、篠原城と呼んだのが
始まりとされ、天文年間(1532~1555年)御井郡司が修築したと伝わる。天正年間
(1573~1591年)初期、高良山の座主良寛の弟鱗圭が城主となった。小規模な城で
あったが、本格的な城の構築は、1587年豊臣秀吉の九州征伐後、毛利元就の子毛利秀包
が筑後国御井・山本・上妻・三潴4郡内に於いて3万石で久留米城に入ってからである。筑
後川を北外堀に泥湿地・沼地を利用して水路を巡らし、丘陵頂部の本丸は石垣造り、東南隅
に三重巽櫓、天守は築かれなかった。1600年「関ヶ原の戦い」で秀包は西軍に属して所
領没収、久留米城は黒田孝高の弟図書や加藤清正の臣和田備中が城番を務めた。1601年
三河国岡崎10万石田中吉政が筑後一国32万5000石で柳川城主となり、支城となった
久留米城は田中吉政の次男吉信が城代となった。1609年吉政没後、忠政が継ぐが、16
20年忠政病没後、嫡子が無かった為、田中氏は絶家・除封された。代わって奥州棚倉3万
石立花宗茂が柳川城に入り、10万9600石余で再立藩。久留米城は丹波国福知山8万石
有馬豊氏が13万石の加増を受け、21万1800余石で入封。豊氏は入封して直ぐ久留米
城の改修を行い、城域を広げて城下町も整備した。1637年「島原の乱」では幕命を受け
て出陣、戦功を挙げたが、1642年に没し、子の忠頼が継いだ。忠頼は初め実子が無かっ
たので、但馬国出石藩主小出吉重の次男豊祐〔生母は忠頼の妹〕を養子に迎えたが、後に頼
利・頼元の2人の実子が生まれた。1654年江戸参勤の途中で忠頼は家臣に暗殺され、兄
頼利が家督を継いだ。1668年兄頼利が早世し、弟頼元が継ぎ、同年養子の豊祐に1万5
00余石を分与して松崎藩を立藩した。1705年頼元没後、子の頼旨が継ぐが、1年で没
した為、幕臣石野則員の次男則維を養子として家督を相続させた。則維の後、1729年頼
徸-1784年頼貴が継ぎ、1787年藩校「修道館」を設立。1812年頼徳-1844
年頼永-1846年頼咸と続き、1871年廃藩置県を迎える。1983年県指定史跡、2
017年続日本100名城に選定される。現在は神社となり、石垣、水堀、井戸跡が残る。
【所感】筑後川の東岸に位置し、北から本丸・二の丸・三の丸が並ぶ連郭式の縄張りになっ
ており、往時は各曲輪は水掘に囲まれていました。二の丸、三の丸はブリヂストン久留米工
場・住宅に変わり、本丸は石垣・水堀・井戸跡が残る笹山神社となっています。天守は無か
ったようですが、本丸南東角の巽櫓が三重三階で天守代用だったようです。水堀は本丸の南
側に残っています。私のお薦めは算木積みが綺麗な本丸南面・東面の高石垣です。
冠木御門跡・本丸
二重多聞櫓門跡・本丸
太鼓櫓跡・本丸
坤櫓跡・本丸
井戸跡・有馬記念館前
本丸大手門跡
本丸・笹山神社
本丸・大乗院稲荷神社
本丸御殿跡
小早川神社・本丸
大井戸跡・本丸
乾櫓跡・本丸
艮櫓跡・本丸
本丸東御門跡・本丸
月見櫓台・本丸
蜜柑丸
巽櫓台・本丸
本丸南の水堀
二の丸