上総 久留里城
Kururi castle
久留里城址資料館・久留里城跡【千葉県君津市久留里448】
君津市森林交流体験センター【千葉県君津市久留里市場1018】
【立地】山城
【別称】雨城・霧降城・浦田城
【歴史】標高145m、比高100mの尾根に築かれた山城である。武田信長〔甲斐国守護
武田信満の次男〕が第5代鎌倉公方足利成氏に仕え、1455年上総国守護代に任ぜられた
。1456年主君成氏の市川城攻撃に応じて上総へ侵入、庁南・真里谷に城を築き、庁南城
に信長、真里谷城に長子信高が入った。この後、信長の次男信武を峯上城、三男信房を久留
里城へ入れる。この時期の久留里城は、現在の本丸から北西780mの頂を中心とする「上
の城(古久留里城)」と呼ばれるエリアとされる。天文年間(1532~1555年)、安
房国里見氏の支配下となり、里見義尭の時、久留里城を本城として改修したと云う。北条軍
の上総侵攻により、6代義尭-7代義弘-8代義頼-9代義康は長きに亘り攻防戦を繰り返
し、1590年秀吉の「小田原征伐」で義康が遅参したことで上総を失い、領国を安房国の
みに縮小された。同年「家康関東移封」に伴い、久留里城に松平(大須賀)忠政が3万石で
入封、1600年「関ヶ原の戦い」の戦功により、1601年旧領の遠江国横須賀5万50
00へ転封となった。替わって、2代将軍秀忠の近習土屋忠直が相模国から2万石で入封、
1612年忠直没後、利直が継いで善政を布いたが、1675年に継いだ直樹は、1679
年御家騒動で狂気を発して除封され、居城は破却、廃藩となった。1742年上野国沼田か
ら黒田直純が3万石で入封、再立藩した。この時、直純は久留里城再築料として50両を与
えられた。1775年直純没後、直享-直英-直温-直方-直候-直静-直和-直養と続き
、1871年廃藩となる。
【所感】君津市森林交流体験センターが在る駐車場から案内板に従ってアスファルト路を登
って行くと、右上にコンクリートで埋められた「堀切」、左手「久留里曲輪」→右手「お玉
が池」、そして久留里城址資料館が建つ場所が二の丸、南西隣りに薬師曲輪が在ります。尾
根道へ戻って先へ進むと、左手「天神曲輪」→「男井戸・女井戸」→右手「波多野曲輪」→
頂上「本丸」となります。本丸には少し盛り上がった天守台、その横に天守を模した展望台
が建ち、城の雰囲気を出しています。駐車場から本丸まで足場良く造られ、各曲輪・井戸に
標柱が立つ、観光客に優しい城跡になっています。私としては二の丸から北西に連なる尾根
上に在った古久留里城跡を訪ねたかったのですが、時間の都合で断念しました。遠征でノル
マ的に他の城跡も周っているので仕方ないんですが…。
二重三階 模擬天守・展望台・本丸
本丸
天守台・本丸
波多野曲輪
男井戸・女井戸
天神曲輪
天神曲輪-二の丸間の尾根道
薬師曲輪から見た二の丸
薬師曲輪
三の丸
お玉が池
久留里曲輪
登城途中の堀切跡