伊予 松前城
Masaki castle
松前城跡【愛媛県伊予郡松前町筒井】
東レ愛媛工場【愛媛県伊予郡松前町筒井1515】
古城幼稚園【愛媛県伊予郡松前町筒井1387-1】
【立地】平城〔海城〕
【別称】正木城・真崎城・松崎城
【町指定史跡】松前城跡
【歴史】築城年は定かではない。起源は平安時代と伝わるが、文献に初めて現れるのは南北
朝時代(1331・1336~1392年)と云う。1336年南朝方の合田弥四郎貞遠が
籠城し、足利方お河野通治の武将祝彦三郎安親の攻撃を受けて落城、合田弥四郎は由並城へ
敗走した。後、大森盛長の領地とされるが、確証はない。1368年北朝方の宍草入道出羽
守が護っていたが、河野通直の攻撃で落城。河野氏の将栗上通宗-宗閑の居城となり、15
85年豊臣秀吉の四国征伐による小早川隆景の攻撃で開城した。河野通直は夫人の実家であ
る安芸国竹原に退き、1588年粟野木工頭秀用が入り、1595年淡路国志智城主1万5
000石加藤喜明が、1592~1593年「朝鮮出兵〔文禄の役〕」の功により久米・温
泉・乃万・中伊予4郡6万石で松前城へ入った。喜明は城内に在った性尋寺・金蓮寺を西古
泉へ移築、城の大改修・港の築造・洪水を起こす伊予川を足立重信に命じて改修を行い、伊
予川は重信川と呼ばれるようになった。1597~1598年「朝鮮出兵〔慶長の役〕」で
2400余の兵を率いて朝鮮へ渡り、軍功により10万石に加増された。1600年「関ヶ
原の戦い」で喜明は東軍に属したが、留守を狙って西軍方の河野通軌や毛利輝元の武将宍戸
・曾根・村上・野島氏が松前城へ侵攻。留守居の加藤喜明の弟忠明・佃・中島・安達氏らは
必死に戦い、関ヶ原で東軍の勝利を聞くと、中国勢は山口へ撤兵した。喜明は関ヶ原の戦功
により20万石に加増され、1602年松山平野中央の独立丘陵勝山〔標高132m〕に新
城築城を始め、1603年未完成の状態で家臣・住民らと共に城下に移転した。この時、松
前城の石垣や櫓などの資材は松山城へ運ばれ、松前城は廃城となる。松前城は北から本丸・
二の丸・三の丸と並ぶ連郭式の城で、これらを内堀が囲み、その外側に石垣、更に外堀が囲
む形になっており、海に隣接して在ったと云う。1969年松前町の史跡に指定。現在は住
宅となり、1925年二の丸を耕地化して余った盛土に松前城碑が建つ。
【所感】伊予松山城から大洲城へ向かう途中に松前城跡の石碑が目に入り、松山に帰る際に
寄りました。県道22号線沿い、伊予鉄バス「東レ前」バス停の前に松前城址の看板・塙団
右衛門の看板・松前城跡碑・松前城碑が在ります。近くには古城の名が付く幼稚園も在りま
す。松前は“まつまえ”と思っていたら“まさき”って読むんですね。加藤喜明は三河出身
、塙団右衛門〔塙直之〕も尾張出身ということで、我が愛知県ゆかりの人物の名があって嬉
しく思います。
松前城跡