越中 増山城
Masuyama castle
増山城跡【富山県砺波市増山】
【立地】山城
【別称】和田城
【国指定史跡】増山城跡
【県指定史跡】
【歴史】築城年は定かではない。1351年桜井氏、1562年斯波氏の城であったと云う
。1467年神保氏の城となり、15世紀後半に増山城を支城として整備し、縄張りの基礎
が造られたと云う。永正年間(1504〜1520年)、加賀に端を発した一向一揆が越中
を席巻し、1506年これに対抗した神保慶宗と越後守護代長尾能景〔謙信の祖父〕の連合
軍が城下で行われた「芹谷の合戦」で敗れ、能景は討死した。その後、神保長職が勢力拡大
を図って新川郡へ進出し、1543年富山城を築城。やがて新川郡の椎名氏を圧迫した為、
新川郡の支配を任せていた長尾景虎〔上杉謙信〕が長職を討つ為、1560年越中へ進軍。
増山城へ逃げた長職は景虎に包囲され、夜半に逃走、敗戦。1562年勢力を回復した長職
は一向一揆の加勢を得て、新川郡へ進出。椎名氏を救援する為、上杉輝虎〔上杉謙信〕が越
中へ出兵し、長職が立て籠もる増山城周辺に火を放ち、長職は敗走した。1572年神保長
職没後、反上杉の一向一揆勢が拠る。1576年上杉謙信が七尾城へ進軍途中、増山城を攻
め落とし、吉江宗信が増山城の守将となる。1578年謙信没後、1581年織田勢によっ
て攻められ、1583年越中平定を果たした佐々成政の支配下となる。1585年城の整備
拡充がなされたが、成政が豊臣秀吉の軍門に降ってから前田方の支配となり、1586年前
田利家の重臣中川光重が城を守った。光重は不在が多く、妻の蕭が城を守り、「増山殿」と
呼ばれていた。1614年中川光重が没し、1615年廃城になったとされる。2009年
国史跡に指定され、現在は曲輪、空堀、井戸跡、石垣などの遺構が残る。
【所感】和田川ダムで出来た増山湖の東に在る山が増山城跡です。私は増山湖に架かる増山
大橋〔歴史看板が在る場所〕から登りました。急な坂道と丸太段をジグザグに登ると、先ず
は一の丸、更に進んで、急な丸太段を上ると、二の丸、神水鉢が在ります。二の丸を戻り、
左方へ進むと石垣跡、又兵衛清水、今回は訪ねていませんが、安室屋敷跡、馬洗池跡、足軽
屋敷跡、空堀、三の丸跡、神保夫人入水井戸跡など多くの遺構が残っています。旅行の一環
で訪ねた城でしたが、広大で遺構の多い、訪ね甲斐のある城跡でした。翌日、砺波チューリ
ップフェアへ行ったので、越中遠征の思い出にその
時の写真も掲載します。
増山城跡の案内板と歴史看板〔写真:左〕一の丸の石碑〔写真:右〕
二の丸虎口〔写真:左〕二の丸〔写真:右〕
神水鉢・二の丸〔写真:左〕石垣〔写真:右〕
又兵衛清水〔写真:左〕小判清水〔写真:右〕
砺波チューリップフェア