出雲 松江城
Matsue castle

 松江城【島根県松江市殿町】
出雲大社【島根県出雲市大社町杵築東195】

 八雲庵【島根県松江市北堀町308】

【立地】平山城
【別称】千鳥城
【天守の構成・形式】複合式望楼型天守

【国宝】松江城天守
【国指定史跡】松江城

【歴史】1611年堀尾吉晴の築城とされる。松江は毛利氏の支配地であったが、1600年「関ヶ原
の戦い」の際、毛利輝元は西軍の総大将にあって敗れ、周防・長門2国を減封、遠江国浜松12万石の
藩主堀尾吉晴が出雲・隠岐国24万石を得て、松江藩を立藩した。初め、吉晴は尼子氏の旧城である広
瀬の〔月山〕富田城を本城と定め、1601年家督を嫡男忠氏に譲ったが、1604年27歳で亡くな
り、嫡孫忠晴も幼少であった為、吉晴が後見役として再び藩政に執った。領国統治で不便と感じた吉晴
は富田城を捨て、新たに宍道湖東岸の亀田山〔標高29m〕に築城を決めた。1607年着工、161
1年松江城が完成した。同年6月17日、68歳で吉晴が没し、13歳の忠晴が家督を継ぐ。忠晴は、
1614〜1615年「大坂の陣」に参戦するが、1633年嫡子無く没して絶家となった。1634
年若狭国小浜11万3000石の藩主京極忠高が出雲・隠岐国24万石に加え、石見銀山と邇摩・邑智
4万石を得て入封。忠高は2代将軍秀忠の二女初姫を娶っている。1637年江戸参勤中に病没、嫡子
無く、京極家も断絶となる。1638年信濃国松本7万石の越前松平直政が、出雲国18万6000石
余・隠岐国1万4000石で移封。1666年直政没後、嫡男綱隆は弟近栄に広瀬3万石〔広瀬藩〕、
弟隆政に母里1万石〔母里藩〕も分与し、この三家は出雲国内で明治まで存続した。綱隆の後、芳透−
宣維−宗衍−治郷〔不昧〕−斉恒−斉斎〔斉貴〕−定安と続く。1869年版籍奉還の後、定安はその
まま藩知事となり、1871年廃藩置県により知事職に免ぜられた。7月松江藩は松江権となり、11
月出雲一国を統一して島根県となった。1875年松江城天守は180円で落札されて廃城の危機にあ
ったが、取り壊しを惜しむ人々が保存運動を展開し、これを回避、櫓や門は壊された。2001年南櫓
・中櫓・太鼓櫓・塀が復元され、2015年7月8日天守が国宝に指定される。現在は天守、曲輪、石
垣、水堀、井戸跡などが残る。

【所感】現存天守の1つで国重要文化財、いつかは行くべき城と思っていましたが、2015年3月名
古屋から出雲へ飛行機が飛ぶようになり、2015年7月松江城天守が国宝へ格上げ。行きたい気持ち
が足を動かし、やっと訪城が実現しました。大手前駐車場辺りから南櫓・中櫓・太鼓櫓が見えますが、
この日は二の丸下の段で大茶会をやっており、とても写真が撮れる状態では無い。遠景写真を撮って、
直ぐに二の丸上の段へ上り、復元された太鼓櫓・中櫓・南櫓の内部を撮影、一の門を潜っていよいよ天
守へ。時間を掛けてしつこいくらい外観・内部を撮りました〔失敗も結構ありましたが…〕。天守から
出て来た辺りから雲が広がりつつあり、とりあえず建物は押さえたので、「八雲庵」の「鴨なんばん」
を優先して城外へ出ました。案の定、食べ終わった頃には陽光も無くなり、門跡や水堀、石垣などを撮
ることを諦めて米子へ移動としました。若干、消化不良の感もありますが、遠征では天気は予約出来な
いので、これで“良し”としておかないといけませんね。



 

復元 太鼓櫓と井戸跡〔写真:左〕復元 太鼓櫓内部〔写真:右〕



復元 南櫓と復元 中櫓

 

復元 南櫓内部〔写真:左〕復元 中櫓の梁〔写真:右〕

 

南口門・二の丸上の段〔写真:左〕井戸跡・二の丸上の段〔写真:右〕

 

松江神社・二の丸上の段〔写真:左〕一の門と南多聞櫓〔写真:右〕



 







四重五階地下一階 天守【国宝】

 

井戸跡・天守地下1階〔写真:左〕解体修理前の鯱鉾・天守地下1階〔写真:右〕

 

塩倉跡・天守地下1階〔写真:左〕天守地下1階の様子〔写真:右〕

 

天守地下1階の様子〔写真:左〕天守地下1階の様子〔写真:右〕


 

石落し・天守2階〔写真:左〕天守3階の様子〔写真:右〕

 

寄木柱・天守3階〔写真:左〕破風の間・天守4階〔写真:右〕

 

箱便所・天守4階〔写真:左〕天守4階→5階への階段〔写真:右〕

 

天守5階(最上階)の様子〔写真:左〕天守5階(最上階)から遠くに見える宍道湖〔写真:右〕

 

鉄砲櫓台・本丸〔写真:左〕乾櫓台・本丸〔写真:右〕

 

北の門跡・本丸〔写真:左〕水の手門跡・本丸北の腰曲輪〔写真:右〕

 

馬洗池〔写真:左〕堀尾吉晴公像・大手前駐車場〔写真:右〕



出雲大社拝殿の大注連縄・工事中