蝦夷 松前城
Matsumae castle

松前城跡・松前公園【北海道松前郡松前町松城】
    松前町役場【北海道松前郡松前町福山248】

【立地】丘城
【別称】福山城・福山館

【国指定史跡】福山城
【国重要文化財】福山城(松前城)本丸御門

【歴史】初めに蝦夷島に定住した日本人は、源頼朝に滅ぼされた奥州藤原氏の残党と云われている。そ
の後、津軽の豪族安東氏〔安倍貞任の後裔〕が、鎌倉幕府の執権北条氏の代官として十三湊を拠点に蝦
夷島の管領していた。安東氏の勢力は次第に渡島半島に及び、安東氏の代官蠣崎氏が支配。日本人が増
えるに連れてアイヌ人の生活を脅かすようになり、経済的優越感・詐欺的行為の為、1457年酋長コ
シャマインとの戦いになる。この時、日本人の危機を救った人物が上ノ国花沢館主蠣碕李繁の客将武田
信広〔若狭国後瀬山城主武田信賢の長子〕である。戦功により、信広は李繁の婿養子となって蠣崎信広
と名乗り、洲崎館に住んだ。1593年5代慶広は豊臣秀吉から蝦夷島主と認められ、安東氏から独立
。後に徳川家康が政権を掌握すると、1599年慶広は家系図と蝦夷島図を家康に献上し、松島氏に改
称した。1600年福山〔松前〕に陣屋を構え、1604年家康から蝦夷地の支配権を保証され、福山
を居城として立藩した。松前藩は他藩と違って農業生産のない無高大名で、初めは賓客待遇・交代寄合
・万石格に列せられた。更に松前藩の藩域にアイヌ民族が居住していたことも他藩とは違う点である。
松前藩は米作が出来ず、石高が無かった。経済基盤になったものはアイヌとの蝦夷交易独占権にある。
松前の以遠は東・西蝦夷地と称したが、藩はそれぞれに幾つかの商い場を設置し、それを藩直轄か上級
家臣の知行地とし、中・下級藩士は他藩同様蔵米取りであった。その為、知行主は船を仕立ててアイヌ
の生活必需品を積んで商い場へ行き、アイヌの生産物〔海産物〕と交換して松前に戻り、諸国の商人に
売って利益を得た。これらの海産物を求めて全国各地から商人が渡来。松前藩と諸国の商業経済とを結
ぶ唯一の手段は航路であり、従来の北国航路の他に西回り・東回りが開かれ、福山城下、後には箱館・
江差が商港として発展した。慶広の跡を継いだ孫の公広の頃、商人に課した運上税に加え、砂金の採集
などで藩財政は収入を増したが、次の氏広の頃から砂金の収入が減少、アイヌに対する日本人の搾取は
苛酷となった。1669年氏広の子高広の跡を継いだ矩広の時、シャクシャインの大蜂起があり、幕府
は弘前・盛岡・久保田の三藩に出兵を命じた。最初、松前氏は蝦夷島主として幕府から賓客待遇を受け
ていたが、5代将軍綱吉の頃、矩広は交代寄合となり、禄高1万石未満だが、大名に準ずる資格を得、
1719年1万石格となり、交代寄合のまま大名同様に処遇された。だが、財政が次第に窮乏、次の邦
広は倹約を励行し、資広−道広も倹約の政策を継承した。天明・寛政年間(1781〜1789年)頃
、ロシアの南下政策により、千島・樺太・蝦夷島沿岸は緊張状態が続くようになった。豪放な性格の道
広は幕府の忌諱に触れて隠居し、次の章広の時、1799年幕府は異国船警備を理由に浦賀から知床岬
までの藩領を7年限定で借り上げ、1807年更に全島に上知〔知行地を返上〕を命ぜられた。この為
、松前藩は陸奥国伊達郡梁川、上野国甘楽・群馬郡、常陸国信太・鹿島郡内9000石を与えられ、梁
川の地へ移され、蝦夷島に幕府から松前奉行が派遣された。1821年章広は復帰運動が奏功し、松前
に帰封を許され、1831年1万石格に復した。良広−昌広と続き、1849年次の崇広の時、幕府は
辺防に備える為、松前陣屋を改めて築城することを命じ、1854年日本では最後の旧式城郭の松前城
が竣工した。1855年箱館が開港すると、松前藩の領地は松前地方に限られ、代替地として梁川と出
羽国村山郡東根に3万石を与えられ、他に村山郡尾花沢1万4000石の幕領を預けられ、3万石格の
城持大名となった。1864年更に乙部〜熊石までの地が松前藩に返還された。1863年寺社奉行・
老中格に任ぜられ、外様大名ながら幕閣に列したが、1865年老中筆頭阿部正外と共に兵庫開港を主
張した為、朝廷の忌諱に触れて謹慎処分となった。1866年崇広は失意のうちに没し、跡を継いだ徳
広は病弱だった為、執政松前勘解由が藩政を執り仕切り、1868年3月徳広の従兄弟で藩主代理の隆
広が京都に於いて新政府側に忠誠を誓ったが、一方で奥羽越列藩同盟会議にも重臣下国弾正を送って二
股戦略をとった。箱館奉行に代わって新政府の箱館府が設置されると、藩内の勤王派の正義隊が決起し
、藩主に迫って勘解由を謹慎、自刃させた。1868年10月には松前城から檜山郡厚沢部村館に新城
を築いて移った。だが、榎本武揚を将とする旧幕府脱走軍が蝦夷島に上陸すると松前城・館城は落城し
、徳広は弘前に逃げて客死した。1869年4月新政府軍の反撃によって松前城を奪還し、5月には五
稜郭を拠点とする榎本武揚ら旧幕府脱走軍は降伏、これにより戊辰戦争は終結を迎えた。徳広の跡を継
いだ修広は戊辰戦争の功により、賞典禄2万石を与えられ、館城〔北海道檜山郡厚沢部町城丘〕へ本拠
を移し、館藩を立藩した。だが、藩財政は窮乏し、その上内乱の始末や藩士の救済も出来ないまま、1
871年廃藩置県を迎えた。1933年国史跡に指定され、1941年本丸御門が国重要文化財に指定
される。1960年天守、2000年搦手二ノ門、2002年天神坂門が復元され、本丸御門、曲輪、
石垣、水堀などが残る。

【所感】私は松前町役場の南側の駐車場にレンタカーを停めて訪ねました。北海道唯一の日本式城郭で
あり、日本で最後に築かれた日本式城郭でもあります。他の城と比べて珍しいのは、城郭内に砲台が在
ること。海側となる南側から大松前川が流れる東側まで、計7つの砲台が並んでいました。その中で、
現在は6番台場と7番台場だげが場所が分かる形になっています。函館から100キロ程離れた地です
が、西洋式の五稜郭と合わせて、北海道で唯一の日本式城郭を訪ねることが出来、大変いい旅でした。



 

本丸御門【国重要文化財】〔写真:左〕復興 三重三階 天守・松前城資料館〔写真:右〕



本丸御門【国重要文化財】と天守






本丸御殿跡・旧松前城本丸表御殿玄関の石碑



内掘

 

闇の夜の井戸〔写真:左〕シャクシャインらの耳塚〔写真:右〕

 

旧福山城本丸表御殿玄関・北海道指定有形文化財〔写真:左〕多聞櫓跡〔写真:右〕

 

搦手門跡〔写真:左〕大手二ノ門跡〔写真:右〕



復元 搦手二ノ門



南東側の外堀



西側の外堀・湿地

 

北側の外堀跡〔写真:左〕三本松土居〔写真:右〕

 

二重櫓跡〔写真:左〕二重太鼓櫓跡〔写真:右〕

 

鉄砲置場跡〔写真:左〕番所跡〔写真:右〕

 

馬坂門跡〔写真:左〕馬坂〔写真:右〕

 

福山城跡の石碑〔写真:左〕藩校 徽典館跡〔写真:右〕

 

五番台場跡〔写真:左〕7番台場跡〔写真:右〕

 

天神坂〔写真:左〕復元 天神坂門〔写真:右〕