伊勢 松阪城
Matsusaka castle

       松阪城跡【三重県松阪市殿町】
    本居宣長記念館【三重県松阪市殿町1536−7】
松阪市立歴史民族資料館【三重県松阪市殿町1539】

【立地】丘城
【別称】松坂城・四五百森城・鶴城

【国特別史跡】本居宣長旧宅
【国指定史跡】松坂城跡
【県指定史跡】松坂城跡

【歴史】1569年織田信長の南伊勢侵攻を支えきれなくなった北畠氏は、信長の次男信雄
を北畠具教の養子に迎え入れた。信雄は船江〔現松阪市〕薬師寺に住し、1571年大河内
城〔現松阪市〕へ、1572年田丸城〔現田丸町〕へ移り、1580年田丸城焼失を機に飯
高郡細汲に移って松ヶ島〔現松阪市松ヶ島町〕と改名して、五重の天守を持つ城と城下町を
築いた。1582年『本能寺の変』の後、織田信雄は尾張国清州城に移って尾張・伊賀・南
伊勢を領した。信雄は松ヶ島に家臣の津川玄蕃義冬を城主として置いたが、1584年『小
牧長久手の戦い』に於いて秀吉方に下った津川を討ち取り、代わりに滝川雄利を入れた。そ
の後、秀吉方の岡本宗憲が預かり、同年蒲生氏郷が近江国日野→松ヶ島12万石で入封、氏
郷は城を中心に城下町を整備したが、狭小であった為、1588年潮田長助が築いた砦跡の
四五百森の丘に城を移し、松坂と名付けて城下町を3年掛けて築いた。1590年氏郷は会
津若松城へ転封、1591年豊臣秀次の家臣服部采女正一忠3万5000石で城主となった
が、聚楽第在勤の為、代わって家臣の石毛右衛門が入った。1595年一忠は秀次事件に連
座して改易となり、同年近江国日野から吉田重勝が3万5000石を領して入る。1600
年重勝は東軍に属し、会津の上杉征伐に従軍、石田三成の挙兵を耳にすると、急ぎ帰城して
留守役の古田助左衛門と共に西軍鍋島信濃守勝茂の攻撃を支え、安濃津籠城中の富田信高に
援軍を差し向けた。同年『関ヶ原の戦い』の後、戦功により2万石の加増を受けて5万50
00石の大名となった。1603年佐和山城普請に従事したが、1606年重勝は48歳で
死去。弟重治が遺領を継いだが、重治は、1614〜1615年『大坂の陣』に参戦、16
19年石見・丹波国5万400石で石見国浜田城へ転封となり、松坂藩は廃藩となる。同年
松坂は和歌山藩松坂領6万石を管轄する郡奉行所が置かれ、1657年初代城代大久保四郎
右衛門が任ぜられ、その後も松坂城代が松坂・白子・田丸勢州三領の代官を支配して和歌山
藩領を統治した。1644年台風で天守が倒壊。1881年公園となる。1952年県指定
史跡、2006年日本100名城に選定、2011年国指定史跡となる。現在は天守台、曲
輪、石垣、井戸跡が残る。

【所感】門から天守台まで総石垣作り、建物は無くても石垣だけでも充分に楽しめます。他
にも『本居宣長記念館』『松阪市立歴史民族資料館』『御城番屋敷』などもあり、半日は楽
しめる場所です。松阪牛も食べることが出来れば最高です。





表門口





表門跡



松阪城跡碑



井戸跡・表門跡の北



遠見櫓台





遠見櫓台と助左衛門御門跡





鐘の櫓台



藤見櫓台

















きたい丸と櫓台



井戸跡・本丸上段









天守台・本丸上段



天守付櫓台・本丸上段





敵見櫓跡・本丸上段



本丸上段〔兵部屋敷跡〕









金の間櫓跡







金の間櫓台所跡





本丸上段虎口



本丸下段虎口



本丸下段







月見櫓跡・本丸下段







太鼓櫓台・本丸下段







中御門跡



二の丸西側の土居御門跡



二の丸

 

徳川陣屋跡碑・二の丸〔写真:左〕二の丸跡碑・二の丸〔写真:右〕



二の丸西南隅櫓跡



裏門跡



裏門口と二の丸西南隅櫓台



二の丸東南の石垣



隠居丸



米蔵跡・隠居丸



現存 米蔵【県指定有形文化財】・隠居丸より移築



井戸跡・隠居丸

















本居宣長旧宅【国特別史跡】・隠居丸







隠居丸西南隅櫓台



隠居丸西端の埋門跡



松阪城跡から見た御城番屋敷



搦手門跡付近・松阪工業高等学校北東



大手門跡付近・松阪市役所南西