遠江 見付端城
Mitsukeha castle

     大見寺【静岡県磐田市見付2510−1】
  磐田北小学校【静岡県磐田市見付2352】
見付交流センター【静岡県磐田市見付2385−10】

【立地】丘城
【別称】見付城・端城・遠府城・破城・羽城


【歴史】築城は室町時代(1336〜1573年)初期とされる。今川基氏の子今川範国〔
1295?〜1384年〕は今川家草創期の一人として足利氏を後ろ盾に基礎を固め、南朝
方との争いに終始した。1331〜1336年「元弘・建武の乱」では宗家足利尊氏に従っ
て各地を転戦、戦功により、1336年遠江守護、次いで駿河守護も兼任した。嘗て遠江国
の国府が置かれた見付を拠点に発展した。範氏−泰範は岸・大津・花倉と駿河への進出を企
て、範政の代でその目的を達成した。今川宗家が駿河に入ると、見付端城は遠江今川氏の祖
今川貞世〔了俊〕以来、貞臣−貞相−範将−貞延−貞基の居城となり、堀越用山〔貞基〕が
今川氏輝没後、反今川義元派に属して見付端城に立て籠もった為、1537年義元は天野虎
景に見付端城攻撃を命じて落城した。この後、義元が接収修理され、1563年堀越氏一族
の時、焼失したとみられ、1569円徳川家康の城之崎城〔見付新城〕築城の時と考えられ
る。現在は大見寺、磐田北小学校に変わり、大見寺に土塁の名残りが残る。


【所感】大見寺の寺門横に立つ「大見寺の文化財」の看板に1698年の大見寺絵図があり
ます。大見寺と御殿跡を土塁で囲んだ四角い南郭、四方を土塁で囲む北郭〔二の丸〕は磐田
北小学校の校舎辺りと思われます。北郭と南郭の間となる見付交流センターに見付端城跡の
石碑が立っています。14年半ぶりの訪問でした。




見付端城跡の石碑・見付交流センター





大見寺・見付端城跡





大見寺西端の土塁



二の丸跡・磐田北小学校



東海道見付宿本陣跡



旧見付宿脇本陣大三河屋門【市指定文化財】