丹後 宮津城
Miyazu castle
宮津城跡【京都府舞鶴市鶴賀】
宮津小学校【京都府舞鶴市外側2508】
宮津市役所【京都府舞鶴市柳繩手345−1】
宮津武田病院【京都府舞鶴市鶴賀2059−1】
京都北都信用金庫【京都府舞鶴市鶴賀2054−1】
大手川ふれあい広場【京都府舞鶴市柳繩手】
【立地】平城
【別称】鶴賀城・舞鶴城
【歴史】1580年8月細川藤孝〔幽斎〕・忠興父子が織田信長から丹後国12万石余を与
えられ、山城国長岡→宮津の八幡山城へ入り、後に宮津城を築いた。信長・秀吉に属した細
川氏は1600年6月家康の「会津征伐」に忠興が参戦。その間、妻のガラシャは石田三成
からの大坂城入りを拒んで命を絶ち、父藤孝は田辺城の留守を預かったが、西軍の攻撃で開
城となった。この時、藤孝は本城の宮津城を焼き、守りが固い田辺城で500の兵とともに
籠城したが、両軍の和議で終結した。11月細川忠興は豊後国中津39万石→豊前国小倉へ
移る。1601年信濃国飯田から京極高知が12万3200石で田辺城に入り、田辺藩を立
藩したが、幕府の扱いは宮津居城であった。1602年高知は丹後国の総検地を行って支配
体制の強化を図る。1622年8月高知没後、遺領は嫡男高広が宮津城:7万8200石、
次男高三が田辺城:3万5000石、養子高通は峰山陣屋:1万石に分与され、丹後国で新
たに3藩が立藩した。高広は細川氏が築いた宮津城を拡張し、1625年頃にほぼ完成、1
636年まで城下町の造成を行った。宮津城は寛文年間(1661〜1673年)に大修築
を行うが、その後、1868年まで縄張や城下の規模は殆ど変わらなかった。1654年高
広は致仕し、その子高国は素行の悪さから改易となる。3年間の天領を経て、1669年山
城国淀から永井尚征が7万3600石で入封した。1674年尚長が襲封して奏者番になっ
たが、1680年4代将軍徳川家綱薨去の悼む増上寺初法会3日目の法場で、志摩国鳥羽藩
主内藤忠勝に刺殺され、嗣子が無い為に遺領を収公された。1681年武蔵国岩槻から阿部
正邦が9万9000石で入封したが、1697年下野国宇都宮へ移封され、入れ替わりで下
野国宇都宮から奥平昌成が9万石で入封。1714年全藩農民一揆が起こり、宮津町方の6
つの本町にそれぞれ年寄を置いて支配する制度が始まった。1717年昌成は豊前国中津へ
移り、信濃国飯山から青山幸秀が4万8000石で入封。1722年加悦谷で縮緬生産が始
まり、丹後縮緬が特産品になった。1744年嫡子幸道が襲封、1758年美濃国郡上へ移
封。1758年遠江国浜松から本庄松平資昌が7万700余石で入り、1761年資尹−1
765年資承〔奏者番・寺社奉行〕と続き、1784年資承は弟村上常福に355石を分知
。1796年宗允−1816年宗発〔寺社奉行・大坂城代・京都所司代・老中〕、1818
年藩校礼譲館が創設される。1840年宗秀〔寺社奉行・大坂城代・京都所司代・老中〕が
継ぎ、1854年外国船の接近に備えて宮津湾岸に台場7ヶ所築造、1858年大砲を鋳造
、城外の洲崎台場に砲15門据えた。1866年宗武が継ぎ、1869年版籍奉還で知藩事
となり、1871年廃藩置県となる。現在は市街地となり、大手川沿いに城塀が復元され、
石垣、小学校に太鼓門が残る。
【所感】往時の宮津城は大手川を城郭の西端とし、本丸の四方を二の丸が囲み、二の丸の三
方を三の丸が囲む形となっており、輪郭式と梯郭式が合わさった海城〔水城〕でした。現在
は本丸・二の丸・三の丸の形が分かるような区画になっていない為、撮りようがありません
。その為、移築門や細川ガラシャ像、復元城壁、あちこちに建てられた看板を撮り歩く形に
なりますが、私は全ての看板を見付けることが出来なかったので、次回、近くに行った際に
リベンジしたいと思います。
宮津城の看板・宮津武田病院・国道178号線沿い
宮津城跡第三次発掘調査地(三の丸西部)の看板・京都北都信用金庫西側
復元 城壁・大手川沿い
細川ガラシャ像・大手川ふれあい広場
細川ガラシャと丹後・宮津の看板・大手川ふれあい広場
大村邸跡長屋門・大手川ふれあい広場
移築 太鼓門・宮津小学校