筑前 水城
Mizuki

水城跡【福岡県太宰府市下大利・吉松・水城・国分】
水城館【福岡県太宰府市国分2丁目17】

【立地】平地

【国特別史跡】水城跡

【歴史】朝鮮半島の三国時代〔高句麗・百済・新羅〕末期、663年唐+新羅連合軍が百済
へ侵攻。百済と同盟関係にあった倭国〔大和朝廷〕は百済復興の援軍を朝鮮半島へ派遣する
が、「白村江の戦い」で大敗、帰国した。唐+新羅連合軍の侵攻を恐れた大和朝廷は、66
4年倭国防衛の最前線である九州北部〔対馬・壱岐・筑紫国など〕に防人〔辺境守備兵〕と
烽〔とぶひ〕を配備、大宰府の北西に水城大堤を築造した。665年長門城・大野城・基肄
城の朝鮮式山城、667年金田城・屋島城・高安城を築いて侵攻に備えた。668年唐・新
羅連合軍は高句麗も滅したが、新羅は逆に唐の脅威に晒せれる結果となり、倭国への侵攻は
免れた。水城の長さは約1.2km・基底部〔下成土塁〕の幅約80m・基部〔上成土塁〕の
幅約20m・高さ7〜9m、博多側に外濠幅約60m、大宰府側に内濠幅約10mが設けら
れた。1921年国指定史跡、1953年国特別史跡となる。現在は山林、道となり、大堤
〔土塁〕が残る。


【所感】「水城」とは変わった名前ですが、大堤の外・内側に水堀が有ったこと、日本書紀
に「筑紫に大堤を築いて水を貯えしむ。名づけて水城と曰う」とあり、東門付近の井戸跡か
ら「水城」と書かれた「墨書土師器蓋」が見付かったことから、この名に確定したようです
。現在、長さ1.2キロの内、JR鹿児島本線、西鉄天神大牟田線、御笠川、国道3号線、九
州自動車道、県道112号線などによって寸断されており、歩くと遠回り〔橋・踏切〕にな
るので、車で少しづつ移動しながら回りました。JR鹿児島本線近くには水城土塁断面広場
、水城東門跡〔県道112号線沿い〕に水城を紹介した水城館もあるので、こちらを利用す
るとより分かりやすいと思います。




水城西門跡・下大利4丁目・吉松3丁目・吉松2丁目






水城・下大利3丁目・吉松1丁目



水城東門跡南西の水城・水城1丁目







水城の碑・水城東門跡付近・水城3丁目・国分2丁目








水城東門跡・水城3丁目・国分2丁目