蝦夷 茂別館
Mobetsudate residence

矢不来天満宮・茂別館跡【北海道北斗市矢不来138】

【立地】丘城
【別称】下国館・茂辺地館

【国指定史跡】茂別館跡

【歴史】築かれた年代は定かでは無い。1442年津軽福島城主安東盛季が南部氏との戦いに敗れ、蝦
夷へ渡った。或いは、南部氏の人質として育てられ、田名部を領していた安東政季〔安東盛季の弟安東
道貞の孫〕が、1454年武田若狭守信広・相原周防守政胤・河野加賀右衛門尉越智政通らを従えて、
蝦夷へ渡航し、茂別館を築いたとも云われる。安東宗家の盛季は、津軽奪回の為に南部氏に戦いを挑む
が、盛季の子康季・孫の義季は津軽で戦死し、1453年絶家となった。盛季の弟庶季は西津軽、及び
、秋田に勢力を張っていたが、その孫堯季は政季に秋田の能代川流域檜山地方を分知し、一族協力して
1456年秋田檜山へ移住、茂別館主は下国茂別式部大輔家政に任せた。1457年道南東部の酋長コ
シャマインを盟主と仰ぐ蝦夷の大軍が、道南に点在する12の館を一斉に攻撃。10館が落城し、残党
は茂別館・花沢館に集まり、花沢館主の武田信広の武略によって治まった。1501年家政が没し、孫
の師季が家督を継いだが、1562年蝦夷の攻撃で茂別館を失って松前に逃れ、剃髪して清観と号した
。その後、直季・重季を経て、慶季に至って、松前氏に臣事し、茂別館を廃して松前の下国屋敷に移っ
た。茂別とはアイヌ語の「モベチ」で「静かなる川」を意味する。1582年国史跡に指定される。現
在、大館に矢不来天満宮が鎮座し、土塁、空堀が残る。

【所感】函館市から松前城へ移動途中に茂辺地に寄って訪ねました。大館・小館から成る縄張りですが
、天気と時間の都合で大館のみを訪ねました。矢不来天満宮の鳥居を潜って、本殿右手へ進むと、長く
残る土塁が直ぐに目に入り、土塁の背後に空堀が確認出来ます。





大館東側の空堀

 

大館東側の土塁〔写真:左〕史跡 茂別館跡の石碑と看板〔写真:右〕