伊賀 百地丹波城
Momochi Tanba castle
百地丹波城跡【三重県伊賀市喰代】
青雲寺【三重県伊賀市喰代975】
永保寺【三重県伊賀市喰代1096】
【立地】丘城
【別称】百地丹波守城・百地城・百地砦・百地丹波砦
【歴史】築城年は定かではない。標高270m、比高20mの丘に築かれた伊賀三大上忍の
一人、百地丹波守の城〔砦〕である。名張市の滝口城も百地丹波城と呼ばれ、同族に百地丹
波守を名乗る人物がいる為、歴史が混在しやすい。百地家の祖は百地丹波泰光と伝わる。1
544年『三国地志』に“喰代もも地殿云々”とあることから、この頃、既に喰代一帯を領
有する土豪であったことが伺える。1567年信長の伊勢侵攻が始まり、1579年『伊賀
の乱』の『布引鬼瘤口の戦い』では、織田信雄軍に対して百地丹波とその一党が参戦したこ
とが、『伊乱記』にみえる。1581年『第二次伊賀の乱』では喰代から百地丹波、滝口か
ら百地新之丞・百地太郎左衛門が柏原城〔名張市赤目〕に立て籠っている。『滝口百地家系
図』に百地丹波守正西が滝口の城山で織田信雄軍に敗れ、一時、高野山に入ったとあるが、
こちらは滝口の百地丹波守と考えられる。滝口は伊賀忍者の里と云われ、百地三太夫が幼少
の頃から赤目四十八滝で修行をして伊賀流忍法を体得、上忍の伊賀忍者として織豊政権に反
抗したと伝わる。現在は山林、寺となり、曲輪、土塁、堀切、堀が残る。
【所感】久保川の南に横たわる丘陵に築かれた百地丹波城跡は、西から保永寺〔出丸か〕→
丸形池→墓地と青雲寺〔居館跡〕→主郭と南側の空堀→堀切→曲輪〔二の曲輪か〕→東端の
曲輪〔出丸か〕の順で横一列に並ぶ連郭式城郭です。主郭は南北に虎口を持ち、高い土塁も
有って一番の見どころになりますが、東側の堀切や南側の空堀もしっかり残っていてこちら
もお薦めです。主郭東隣りの曲輪は広くて平面度も良く、少し離れた出丸は東端にL型の土
塁と虎口が残っています。出丸は曲輪内に笹が密集しているので、南の林から攻めましょう
。青雲寺の南側に堰き止められた丸形池がありますが、往時は空堀だったようです。大河ド
ラマ「どうする家康」に登場した百地氏。城跡北側に駐車場も有りますので、一度、訪ねて
みてはいかがでしょうか。
青雲寺までの道と駐車場
居館跡・青雲寺
百地家塁代之墓・青雲寺西隣りの墓地
丸形池・堀跡
主郭までの道
主郭と土塁
伊賀流上忍 百地丹波守城趾碑・主郭
主郭南側の空堀
主郭東側の堀切→竪堀
二の郭か
出丸東端の虎口
出丸東端の土塁
丘陵西端の永保寺・出丸か
南部女官式部之塚