三河 本宿陣屋
Motojuku Jinya
本宿陣屋跡【愛知県岡崎市本宿町字南中町26】
法蔵寺【愛知県岡崎市本宿町寺山1】
【立地】平地
【歴史】1696年、柴田勝家の子孫柴田出雲守勝門が旗本3024石で陣屋を構えたことに始ま
る。その後、1701年勝富−1723年勝定−1729年勝曠−1751年勝満―1767年勝
房−1805年勝延―1821年勝明−1846年勝全―1866年岩五郎と続く。現在は病院に
変わり、西隣りに代官屋敷跡が残る。
【所感】国道1号線新箱根入口信号から下り方向へ100m程進むと、左手に写真のような「本宿
の歴史と文化をたずねて」と書かれた大きな看板が在ります。この看板横の道を入ると本宿の旧宿
場町になり、150m程で法蔵寺、更に150程進んだ左手に陣屋跡と代官屋敷跡の地図が書かれ
た看板、富田病院の看板が在ります。陣屋跡を思わせる石垣上に病院の建物が建っています。病院
の南100程に家康ゆかりの法蔵寺が在ります。家康は幼少の頃、この寺で住職の教翁〔長沢松平
康忠の叔父〕に手習い、漢籍を学んだと云われています。家康が手習いの際に使用した「賀勝水」
、草紙を乾かした松が在り、その他に近藤勇の首塚、松平一族の墓所が在ります。「近藤勇の首塚
」ですが、平尾一里塚〔東京都北区滝野川〕で斬首され、翌日、京都の三条河原で梟首された。3
夜目に同志が勇の首を盗み、近藤が尊敬していた弥空義天大和尚に埋葬を依頼したが、既に法蔵寺
へ転任していた為、同じように法蔵寺へ移されたと云う経緯になっています。また、松平一族の墓
は、右から「亀姫〔家康=築山御前の長女・奥平信昌の妻〕」「松平泰親公〔松平宗家2代〕」「
松平広忠公〔松平宗家8代・家康の父〕」「松平重都三良孝?」「松平右馬佐?」「松平左馬佐?
」「於久の方〔大給松平乗正の娘・広忠の先妻〕」「松平忠政〔広忠=於久の方の子・家康の異母
兄弟〕」「薄井姫〔松平宗家7代清康の娘・長沢松平政忠の妻・政忠戦死後、酒井忠次の妻〕」「
矢田姫〔広忠=平原正次の娘・家康の異母兄妹・長沢松平康忠の妻〕」の順になります。
本宿陣屋跡・富田病院〔写真:左〕本宿陣屋跡と代官屋敷の看板〔写真:右〕
旧代官宅・富田病院〔写真:左〕法蔵寺〔写真:右〕
法蔵寺の松平一族墓所