日向 穆佐城
Mukasa castle
穆佐城跡【宮崎県宮崎市高岡町小山田】
旧穆佐小学校【宮崎県宮崎市高岡町小山田982】
穆佐小学校【宮崎県宮崎市高岡町小山田87-1】
【立地】平山城
【別称】六笠城・高城・穆佐院高城
【国指定史跡】穆佐城跡
【歴史】元弘年間(1331~1334年)、穆佐院〔税稲を収納する院蔵が在った場所〕の役所跡地
に築かれたとされる。足利尊氏は西国の大半を平定した時、穆佐をその室赤橋氏の領地としたが、その
為に伊東氏の支族であった南朝方の伊東藤内左衛門祐広は、1335年12月24日この城を奪って立
て籠もったが、12月29日北朝方の土持宣栄のこの城を攻めて祐広を追い払った。正平年間(134
6~1370年)、足利直冬が養父直義に味方して九州に来ると、尊氏の代官畠山修理亮直顕も直冬に
属し、1352年4月穆佐に拠った。1358年南朝方に属する肥後の菊池武光が城を落とし、直顕を
敗走させた。その後、都於郡の伊東氏が領有するが、応永年間(1394~1428年)、島津元久が
日向へ侵入、加江田城を奪い、近隣の諸城も攻め取り、穆佐城を子の久豊に守らせた。久豊は伊東祐安
の娘を娶り、1403年5月2日、子の忠国が穆佐城で生まれた。1411年久豊は鹿児島へ帰って家
督を継いだが、1445年9月8日伊東氏が穆佐城を攻め取り、落合治部少輔を入れて、伊東氏四十八
城の一となった。1577年伊東氏が北走してからは島津方の横山兵部大輔規久が入り、1599年川
田大膳亮国鏡が穆佐地頭となった。1615年一国一城令で廃城となる。2002年国史跡に指定され
、現在は山林となり、曲輪、土塁、堀切が残る。
【所感】宮崎遠征最後の訪城先です。城の場所を穆佐小学校の横に在るという情報だけで城跡へ向いま
した。国指定史跡の城跡、看板・標柱などで登城口まで導いてくれると信じて走って来ましたが、どう
にも分からず、穆佐小学校で「旧小学校ではないか?」と言われ、やっと登城口に辿り着きました。旧
小学校の体育館裏に穆佐城跡の標柱と看板が在り、丸太段を登り切ると穆佐護国神社、その裏手に「坪
之城」と呼ばれる曲輪が在ります。右奥へ進むと、何となく谷を歩いているような感じになって来ます
が、これが曲輪群A地区とB地区の間に設けられた大空堀〔堀切〕です。歩いていると気が付くと思い
ますが、木に縄張図が巻き付けてあり、現在地とエリアの名前が書かれてあります。これに従って行く
と、コースもよく分かって迷子になりません。大空堀からA地区へ入ると、先ず西エリアと東エリアの
間に堀切が在ります。東エリアは広い曲輪とその奥に穆佐稲荷神社、西エリアには大小の曲輪が3つ在
ります。大空堀へ戻ってB地区へ入ると、本丸まで幾つかの曲輪が並び、本丸の最奥に土塁、土塁の背
後に深い掘切が在ります。時間の都合で曲輪群C地区とD地区は行けませんでしたが、A地区・B地区
だけでも広さと空堀・掘切の素晴らしさを実感出来ます。
穆佐城跡の標柱と看板〔写真:右〕登城口〔写真:右〕
穆佐稲荷神社〔写真:左〕穆佐護国神社〔写真:右〕
坪之城推定地
「島津忠国の誕生杉」の看板・坪之城推定地〔写真:左〕石灯篭・坪之城推定地〔写真:右〕
曲輪群A地区中央の大掘切
曲輪群A地区 東エリア西端の曲輪〔写真:左〕曲輪群A地区 西エリア西端の曲輪〔写真:右〕
曲輪群A地区 西エリア北東端の曲輪
曲輪群B地区-曲輪群A地区間の空堀
本丸・曲輪群B地区
本丸西端の土塁・曲輪群B地区
曲輪群B地区-曲輪群C地区間の空堀