三河 室城
Muro castle
室城跡・神明神社【愛知県西尾市室町上屋敷97】
林松寺【愛知県西尾市室町上屋敷89】
大通院【愛知県西尾市吉良町寺嶋字御手洗38−1】
伴五郎地蔵【愛知県西尾市吉良町寺嶋字中道】
藤波畷古戦場跡【愛知県西尾市吉良町瀬戸8丁目】
【立地】丘城
【別称】牟呂城・茂呂城
【歴史】標高20m、比高15mの2つ丘陵上に築かれた城である。築城年は定かではないが、永正年
間(1504〜1521年)頃、富永正安〔祐玉〕の居城であったと云う。富永氏は吉良氏譜代の家臣
であり、行康−資正−正安〔祐玉〕−忠安−忠元と続いた。1535年松平宗家7代清康は「守山崩れ
」で没し、1536年岡崎城を追われた10歳の松平宗家8代広忠〔家康の父〕を忠安〔〜1561年
9月13日〕が匿っている。1560年「桶狭間の戦い」で今川義元が敗れると、独立した松平元康は
徐々に三河支配に動き、今川方の東条吉良義昭との対立が深まる。1561年4月「善明堤(鎧ヶ淵)
の戦い」で元康は配下の松平好景を失い、9月西条城〔西尾城〕に酒井正親を置いて、小牧砦・津平砦
・朝〔友〕国砦・糟塚砦に計700余騎の軍勢を配して東条城を取り囲んだ。この時、東条吉良氏の重
臣であった富永伴五郎忠元は城を守る為、「藤波畷の戦い」で敗れ、戦死した。この後、廃城となる。
現在は墓地、神社となり、曲輪、土塁が残る。
【所感】県道42号線と県道383号線が交差する駒場信号交差点を南下し、国道23号線を潜って右
前に見える森山が城跡です。東の山・神明神社は蔵屋敷と呼ばれる大手口で、西の山・墓地が城跡とさ
れます。室城跡の看板が立つ階段を上がると、中央部に井戸跡、墓地の北東端・西端に土塁の一部が残
っています。この墓地は南麓の林松寺の墓地で、周囲より石垣で一段高い境内は富永氏の居館跡ではな
いかとの指摘もあります。
富永伴五郎忠元の墓・大通院〔写真:左〕墓地の井戸跡〔写真:右〕
墓地北西端の土塁〔写真:左〕墓地北端の土塁と城址碑〔写真:右〕
神明神社(蔵屋敷・大手口)〔写真:左〕古城山 林松寺・居館跡か〔写真:右〕
伴五郎地蔵(畑中地蔵)〔写真:左〕藤波畷古戦場の石碑〔写真:右〕