陸奥 白石城
Shiroishi castle
白石城・歴史探訪ミュージアム【宮城県白石市益岡町1−16】
【立地】平山城
【別称】益岡城・増岡城・桝岡城
【市指定史跡】
【歴史】1091年藤原経清の次男経元が、清原武衡追討の武功で陸奥国刈田・伊具両郡を与えられ、
白石城を築いたことに始まる。経元は刈田氏を名乗ったが、1189年秀長の代で白石氏を称した。1
276年秀長の孫長俊は嫡子無く没した為、伊達政依の子宗弘に継がれ、伊達氏に麾下して仕える形と
なった。下って、白石宗利の子宗実は伊達政宗に従って戦功を重ね、1586年福島県安達郡を与えら
れ、宮森城へ移ったと云う。替わって白石城は佐藤信友、屋代景頼の居城となる。1590年秀吉の「
小田原征伐」後、「奥州仕置」により伊達政宗は米沢へ、白石宗実は水沢〔岩手県胆沢郡〕へ移される
。蒲生氏郷が会津に入ると、刈田郡は蒲生秀行の所領となり、白石城はその家臣蒲生郷成が封ぜられ、
益岡と改名して近世城郭として整備された。1595年氏郷が京都で病没し、嫡男秀行が継ぐが、家臣
間で対立が起こり、1598年下野国宇都宮へ転封。越後国春日山から上杉景勝が120万石で会津へ
入り、甘粕景継が白石城代となった。同年8月、秀吉が病没すると、天下の主導権は徳川家康へ移り、
豊臣派の石田三成と対立が始まる。上杉景勝は三成に同調して若松城の戦備を整え、甘粕氏も会津へ出
向いていた為、白石城は登坂勝乃が代理として守備をしていた。家康は伊達政宗に背後から攻めるよう
に命じ、石川昭光・片倉小十郎景綱らと共に「白石城攻め」となるが、本丸を残すのみとなった時点で
登坂氏が降伏。政宗は直ぐに城の修復に取り掛かり、石川昭光に預けた。伊達政宗は、1600年「関
ヶ原の戦い」で東軍に与し、戦功により刈田郡は伊達領に加わり、1602年12月白石城は1万30
00石片倉工小十郎景綱の居城となった。1615年「一国一城令」が制定されても、白石城は幕府よ
り「城」として認められた。下って、1868年「戊辰戦争」に際しては、白石城で奥羽越列藩同盟が
締結され、公儀所が城内に置かれるなど、重要な役割を果した。盛岡藩主南部利剛も奥羽越列藩同盟に
加わって新政府軍に敵対した為、朝敵の責任を問われて領地を没収され、蟄居処分を命ぜられた。その
子利恭は父利剛に代わって謝罪の為、奥羽鎮撫総督九条道孝に謁見し、13万石に減封されて家名相続
を許され、白石へ移封を命ぜられて白石藩が立藩された。白石は元々仙台藩領であり、片倉子十郎景綱
の城下町であった為、移封に際して双方が大混乱を招いた。1869年利恭は盛岡復帰を条件に新政府
に70万両を献金し、白石を去った。知行を離れた片倉家臣らが北海道開拓の移住費用とする為に白石
城は売却され、1875年城郭は解体された。1990年発掘調査が始まり、1995年三重櫓〔天守
〕・大手一の門・大手二の門が木造復元された。現在は曲輪、土塁、空堀、石垣、井戸、門が残る。
【所感】宮城県の城で以前から狙っていた城でしたが、仙台へ行く用事があって白石の天気も良かった
ので、やっと訪ねることが出来ました。白石城歴史探訪ミュージアムには入らず、とにかく本丸へ入っ
て写真を撮り捲くりました。移築門が撮れなかったことが残念です。
本丸東端面の石垣・野面積み〔写真:左〕本丸東端面の石垣・打ち込み接ぎ〔写真:右〕
復元 井戸屋形〔写真:左〕復元 本丸菱御門〔写真:右〕
復元 大手二階門
鐘堂・本丸〔写真:左〕本丸井戸跡〔写真:右〕
木造復元 三重櫓〔天守〕
天守入口の石段〔写真:左〕天守1階〔写真:右〕
狭間・天守1階〔写真:左〕石落し・天守1階〔写真:右〕
天守2階
天守2階〔写真:左〕天守最上階〔写真:右〕
天守最上階から見た本丸御殿跡〔写真:左〕本丸御殿跡〔写真:右〕
天守最上階から見た門と塀
東門跡〔写真:左〕厩口門跡〔写真:右〕