伊賀 名張陣屋
Nabari jinya
名張陣屋跡【三重県名張市丸之内】
名張藤堂家邸跡【三重県名張市丸之内54−9】
名張小学校【三重県名張市丸之内55】
名張中学校【三重県名張市丸之内15】
名張幼稚園【三重県名張市丸之内55−5】
昭和保育園【三重県名張市丸之内67−10】
徳蓮院【三重県名張市平尾3152】
【立地】丘地
【別称】名張城・簗瀬城・藤堂屋敷
【県指定史跡】名張藤堂家邸跡・太鼓門
【歴史】もともと土豪の砦であったが、1585年筒井伊賀守定次が大和国郡山から伊賀国
上野へ転封となり、家臣松倉豊後守勝重に名張8000石を与えた。勝重は嫡子重政の縄張
りで名張城を築き、詰城として北西の山頂に短野城も築いた。1586年勝重没後、重政は
8000石のうち2000石を弟重宗に分与し、6000石で名張城主となった。〔後に重
政は豊臣秀吉に仕えて二条城に入り、次に徳川家康に仕え、1600年「関ヶ原の戦い」の
戦功で大和国五条1万石を得た。1614〜1615年「大坂の陣」の戦功から、1616
年肥前国島原6万石へ移るが、その子勝家の暴政により、1637年「島原の乱」が勃発す
る。〕重政が去った後、筒井定次の家臣桃ヶ谷与次郎国仲が4000石で名張城代となる。
1608年筒井定次改易後、藤堂高虎が伊予国今治から伊賀国安濃津へ移り、名張城代とし
て家臣梅原勝右衛門を入れたが、1615年一国一城令により廃城。それ以後、名張は高虎
の異母弟で上野城代の出雲高清の支配下となる。1635年伊予国今治より名張藤堂家初代
となった藤堂高吉が入り、1636年名張城が在った台地上に屋敷を築き、南西一帯に武家
屋敷・城下町を築いた。高吉は、1579年丹羽長秀の三男として近江国佐和山に生まれ、
幼名は仙丸。初め豊臣秀吉の弟豊臣秀長の養子になる予定であったが、子が無かった藤堂高
虎の養子になり、名を高吉と改めた。1592〜1598年「文禄・慶長の役」では高虎に
従って高吉も渡海、1600年「関ヶ原の戦い」の後、高虎は伊予半国20万石を領して今
治城主となり、高吉も城下に屋敷を構えた。1608年高虎は伊賀国10万540石+伊勢
国安濃・一志郡10万400石余+今治2万石=22万950石余を領した。高吉は家康の
命で今治2万石を領し、1635年まで今治に残った。1614〜1615年「大坂の陣」
では高虎軍に属して戦功を挙げたが、高吉の2万石は高虎の知行内に含まれ、後に始まった
参勤交代も認められなかった。1602年高虎は継妻との間に嫡子高次が生まれ、藤堂本家
となる。1670年高吉没後、次男以下3名に5000石を分与し、1万5000石となる
。その後、1670年長正−1682年長守−1703年長源が継ぎ、1710年名張大火
で城下町・屋敷を焼失。1716年長熙−1735年長美−1741年長旧−1797年長
教−1830年長徳−1864年高美−1865年高節に至り、明治を迎える。現在は小学
校、名張藤堂家邸跡、幼稚園に変わり、名張藤堂家邸跡・太鼓門は県指定史跡である。
【所感】名張城は台地上に築かれた城で、その規模はおよそ名張藤堂家邸跡+寿栄神社+名
張幼稚園+昭和保育園+名張小学校+名張中学校辺りとされ、後に築かれた名張陣屋〔名張
藤堂家の屋敷〕はその中の名張藤堂家邸跡+名張幼稚園+名張小学校辺りとされます。現在
の名張藤堂家邸に在る建物は、名張小学校側へと続く巨大屋敷の一部ではありますが、江戸
中期より残る県指定史跡で、公開されて中を見学出来るのは嬉しい!
名張陣屋跡・名張小学校と名張藤堂家邸跡
名張藤堂家邸跡【県指定史跡】・名張陣屋跡
名張藤堂家邸の現存建物【県指定史跡】・名張陣屋跡
次・名張藤堂家邸〔写真:左〕中奥・名張藤堂家邸〔写真:右〕
祝之間・名張藤堂家邸〔写真:左〕精閑楼(茶室)・名張藤堂家邸〔写真:右〕
水屋・名張藤堂家邸〔写真:左〕湯殿・名張藤堂家邸〔写真:右〕
庭の井戸跡〔写真:左〕・名張藤堂家邸の土塀〔写真:右〕
太鼓門【県指定史跡】・寿栄神社
大手門跡の石碑
徳蓮院〔写真:左〕名張藤堂家墓所・徳蓮院〔写真:右〕