尾張 長久手古戦場
Nagakute historic battleground

古戦場公園・長久手町郷土資料室【愛知県長久手市武蔵塚204】
長久手町中央図書館・桧ヶ根公園【愛知県長久手市野田農106−1】
   血の池公園・交通児童公園【愛知県長久手市城屋敷410】
      富士浅間社・御旗山【愛知県長久手市富士浦41】
        色金山歴史公園【愛知県長久手市岩作色金37−1】
          長久手城跡【愛知県長久手市城屋敷2408】
            安昌寺【愛知県長久手市岩作色金92】
            教圓寺【愛知県長久手市岩作東島103】
             首塚【愛知県長久手市岩作元門41】

【国指定史跡】長久手古戦場(附御旗山、首塚、色金山)

【歴史】1584年3月〜11月に行われた羽柴秀吉×徳川家康の覇権争奪戦である。3月17日秀吉
軍先鋒の森長可隊3000が功を焦って犬山城から羽黒へ陣を進めるが、家康軍の酒井忠次・奥平信昌
・榊原康政6000の迎撃で敗退となる〔羽黒の戦い〕。21日秀吉は大坂を出立し、27日兵3万を
率いて犬山城へ入った。4月2日秀吉軍の一部が姥ヶ懐へ進出するが、家康軍はこれを退けた。4月5
日秀吉は本陣を楽田城へ移し、4月6日夜、羽柴秀次を大将とする本隊8000、池田恒興・元助ら第
1隊6000、森長可ら第2隊3000、堀秀政ら第3隊3000の総勢2万の軍勢が三河岡崎へ向け
て出陣する。白山林で駐屯している情報が入ると、家康は直ぐに榊原康政・大須賀康高ら4500を追
撃させ、8日夜、自らも1万弱の兵で出陣した。9日午前4時頃、羽柴秀次隊の一部が更に南下し、丹
羽氏重、加藤忠景が護る岩崎城を攻め落とすことに成功〔岩崎城の戦い〕。同時刻、徳川軍は白山林に
駐屯する秀次本陣を奇襲、2時間程で敗走させた〔白山林の戦い〕。午前6時頃、堀秀政が秀次軍の敗
兵を長久手に収容させ、追撃して来る徳川軍に備えるが、午前7時過ぎ、家康軍が長久手に進出、激戦
となり、戦況の不利を悟った堀秀政は退却した〔桧ヶ根の戦い〕。午前9時頃、変事を知った森長可・
池田恒興隊は取って返して家康軍に反撃。乱戦の中、池田恒興、池田之助、森長可ら2500の死者を
出して敗走、家康軍も590余の犠牲者を出した〔長久手の戦い〕。秀吉が長久手の戦を知った時には
もう遅く、家康は小幡城へ兵を収め、小牧山へ帰陣した後だった。その後も秀吉−家康間で緊張が続い
たが、11月11日織田信雄−羽柴秀吉間で講和となり、大義名分を失った家康は、11月21日兵を
浜松へ戻した。1939年長久手古戦場跡は御旗山、首塚、色金山と共に国史跡に指定され、古戦場公
園に「長久手古戦場」の石碑が立つ。

【所感】県道6号線古戦場南信号を北へ曲がると、直ぐ左手に長久手古戦場公園・長久手町郷土資料室
が在ります。古戦場関連の史跡はこの資料室の駐車場に立てられている「史跡案内図」で確認すること
が出来ます。


 

長久手古戦場の石碑・古戦場公園〔写真:左〕勝入塚(池田恒興)・古戦場公園〔写真:右〕

 

庄九郎塚(池田元助)・古戦場公園〔写真:左〕武蔵塚(森長可)〔写真:右〕

 

御旗山の石碑・富士浅間社〔写真:左〕堀久太郎英政本陣地の石碑・桧ヶ根公園〔写真:右 〕

 

血の池公園〔写真:左〕鎧掛けの松〔写真:左〕

 

木下勘解由戦死処(木下利匡)〔写真:左〕長久手合戦慰霊碑/伴若狭守盛兼墓・色金山歴史公園〔写真:右〕

 

首塚を築いた雲山和尚の安昌寺〔写真:左〕家康が戦勝祈願した教圓寺〔写真:右〕

 

首塚〔写真:左〕床枕石・色金山歴史公園〔写真:右〕