越後 長岡城
Nagaoka castle
長岡城跡【新潟県長岡市大手通・城内】
まちなか観光プラザ【新潟県長岡市大手通1丁目4-11-1】
シティホールプラザアオーレ長岡【新潟県長岡市大手通1丁目4-10】
河井継之助記念館【新潟県長岡市長町1丁目甲1675-1】
【立地】平城
【別称】兜城・浮島城・苧引城・苧引形兜城・八文字構浮島城
【歴史】1602年堀親良の養子鶴千代が蔵王城主となったが、幼少であった為、坂戸城主
堀直寄が後見役となった。信濃川の洪水・流路の変動による問題から、1605年新城長岡
城の建設・蔵王の渡し→長岡の渡しの新設・町割が行われ、1606年5月鶴千代が卒して
除封、堀直寄が古志・魚沼5万石で長岡城主となる。しかし、1610年堀家のお家騒動で
直寄は信濃国飯山へ転封、松平忠輝の家老山田隼人正勝重が入城。1616年7月忠輝の改
易により諏訪因幡守頼隣が在番、1616年10月再び信濃国飯山藩主3万石堀直寄が越後
国古志・蒲原・三島など越後平野中心部8万石を得て長岡藩を立藩した。1617年春、直
寄は未完成だった長岡城の築城・城下町造り・信濃川舟運の整備に着手するが、1618年
4月越後国村上10万石へ転封となり、代わって越後国長峯藩主牧野忠成が6万2000石
で入封。同年、忠成は工事途中の長岡城を完成させ、城下町の区画整理・制度法令の設定・
文武奨励など藩政に尽力した。1620年1万石の加増を受け、7万4000石となる。1
634年次男康成に1万石を分与して与板藩を立藩、四男定成に6000石を与え、後に三
根山藩を立藩した。1654年忠成が没し、嫡男光成が24歳で没した為、孫の忠盛が2代
藩主となる。忠盛は祖父忠成の功業にあやかって忠成と改め、長岡藩領最初の御中掟などを
定めた。若くして忠成の跡を継いだ3代忠辰は諸士法制を制定して藩士の規律を正し、町中
掟・郷中掟などを定め、新田開発・殖産興業・社会事業などの施設策を行った。国学者荷田
春満に師事して古典際祀を学び、5代将軍綱吉の御前で易経・論語などの講義をするほどの
学識を修めた。忠辰は将軍家綱→綱吉→家宣→家継→吉宗に仕え、藩政もよく治めたので、
長岡藩中興の英主と称され、後に忠精によって蒼柴神社に祀られた。忠辰の後、4代忠寿→
5代忠周→6代忠敬→7代忠利→8代忠寛→9代忠精と続き、1787年忠精は寺社奉行・
大阪城代・京都所司代を歴任、1801年老中に昇進した。松平定信に協力し、1807~
1808年ロシア・イギリス艦船の蝦夷地来襲の対応と処置を行った。藩政面では新川開削
・西川底樋伏込の大工事を成功させ、3900石の新田開発を可能にして藩庫を潤した。学
問を奨励し、藩校崇徳館を創設、1831年退隠した。10代忠雅は幕閣に列し、多難な国
事に精励を尽くした。1843年新潟町600石余が上知になると、藩政改革が進められ、
河井継之助秋義が頭角を現す。1863年11代藩主忠恭が老中になると公用人に登用。1
865年継之助は外様吟味役・群奉行となり、藩政改革を推進するが、その主眼は兵制改革
であり、「非常御用金」と称して多額の費用を領民から徴収。12万両のうち7万両を武器
購入に使い、藩兵を近代装備にした。1867年忠訓が12代藩主となり、大政奉還の時、
幕府に忠誠を誓う長岡藩は徳川の擁護を唱え、争乱の非を主張。1868年「戊辰戦争」が
勃発すると、忠訓以下長岡藩兵は15代将軍徳川慶喜を追って江戸に入る。継之助は武器商
人スネルからガトリング砲2門、多量の銃器・弾薬を購入、3月3日藩士50人と品川を発
し、海路帰藩した。継之助は武装中立もしくは新政府と恭順拒否との仲立ちを模索していた
が、高田藩領に集結した北陸道鎮撫総督高倉永祜は長岡藩に出兵を命じ、金3万両の資金献
納を要求。長岡藩が黙殺すると、東山道軍先鋒隊の軍監岩村精一郎は尾張・加賀諸藩経兵を
率いて小千谷に陣を構え、長岡城包囲網を縮め、一触即発の状況になった。5月2日小千谷
の慈眼寺で継之助と岩村氏の最後の談判が行われたが決裂、長岡藩は激烈な北越戦争に突入
。5月10日戦火が開かれ、5月19日長岡城落城、戦線は中越に広がる。7月24日夕方
から翌払晩に掛けて乾坤一擲の勝負に出て長岡城を奪取した。しかし軍事総督の継之助は重
傷を負って戦列を離れ、多数の戦死傷者を出して、再び落城した。落城に及んで忠訓一族は
会津へ逃れたが、重傷の継之助は8月16日南会津塩津沢峠で没した。敗残兵は会津に奔っ
て抗戦を続けたが、9月25日新政府軍に降伏した。忠訓は謹慎、領地没収。12月13代
を忠毅が継ぎ、改めて2万4000減封、再興を許されたが、1870年10月廃藩となっ
た。現在は市街地、道路に変わり、本丸跡、二の丸跡の石碑が立ち、遺構は無い。
【所感】長岡城跡は長岡市の中心地・JR長岡駅周辺に築かれた城郭で、詰の丸・本丸・二
の丸を内堀が囲み、それら囲むように三の丸・西曲輪・南曲輪が配置され、三重の水堀・信
濃川水系に挟まれた堅固な平城でした。現在は城跡碑がのみ立つ寂しい状態になっています
が、今は幕末に活躍した河井継之助で知られるようになって来ました。
長岡城本丸跡の石碑・JR長岡駅大手口前
長岡城二の丸跡の石碑・城内稲荷神社・まちなか観光プラザ横
河井継之助邸跡・河井継之助記念館
河井継之助立像・河井継之助記念館
ガトリング砲・河井継之助記念館