長門 萩城
Hagi castle
萩城跡指月公園【山口県萩市堀内】
【立地】平山城
【別称】指月城
【国指定史跡】萩城跡
【歴史】毛利輝元は安芸・周防・長門・石見・出雲・伯耆・因幡・備後の8ヶ国112万石
余を領有していたが、1600年「関ヶ原の戦い」で西軍の総大将に担がれて大敗し、周防
・長門2ヶ国に減封となった。輝元は広島城を去って大坂の木津邸に入り、1603年8月
6日江戸桜田邸を新築してそこに長男秀就を置き、城地を定めるために萩を視察した。城の
候補地は山口高嶺・防府桑山・萩指月山の3つを選定し、12月福原広俊を江戸へ派遣して
幕府の老中本多正信・正純父子に城地を伺う形とした。1604年2月3日萩指月山に築城
の許可が下り、『東方』と『詰丸』を吉川広家、『西方』を毛利秀元が担当し、1608年
6月に完成した。1604年萩藩を立藩し、輝元は隠居、家督を嫡男秀就に譲るが、実質的
には輝元が藩政を掌握し、1600年10月毛利秀元〔元就の四男元清の子〕に長門国長府
3万6000石余、吉川広家〔元就の次男元春の子〕に周防国岩国3万石を分与、1617
年毛利就隆〔輝元の次男〕に周防国徳山3万石を分与し、萩を中心とする毛利一族の支配体
制を確立した。萩藩は多くの家臣を抱えた上、戦後失った6ヶ国の既収租税米の返済などで
藩財政が困窮していた為、1608年〜1610年輝元が厳しい検地を行った結果、総石高
は52万8000石余となったが、幕府はこれ7割に当たる36万9000石余を萩藩の朱
印高と定めた。また、輝元は複雑であった家臣団を一門・寄組・大組・船手組などの階層に
分けて8組に編成した。1625年輝元没後、秀就が実質的な初代藩主に就き、1651年
2代綱広−1682年3代吉就−1694年4代吉広を経て、1707年5代藩主となった
吉元は厳しい藩財政を中、1719年人づくりを唱えて藩校『明倫館』を創設、史臣に命じ
て『萩藩閥越録』『防長寺社由来』『地下上申』などを編集した。一方、1715年徳山藩
との境界争いが生じ、長府新田藩主が中に入ったが不調に終わり、1716年幕府の介入で
徳山藩は改易、所領は宗藩に返還された。しかし、1719年家臣らの再興運動によって徳
山藩は再興した。1731年6代宗広を経て、1751年7代藩主に就いた重就の時代にな
ると、凶作続きで藩財政は下り坂、1754年の負債額は銀3万貫〔米換算で60万石〕に
達していた。この為、1761年慶長検地以来の本格的検地を行い、防長2ヶ国の総石高は
約71万石〔支藩領を除く〕となり、4万石余の増徴となった。1782年8代治親−17
91年9代斉房−1809年10代斉熙−1824年11代斉元−1836年12代斉広と
続き、1837年敬親が萩藩主13代を相続した。この時、藩財政は負債銀9万貫に達し、
更に天保一揆後の農民対策が急務となった。これらに対処する為、藩内きっての財政家村田
清風を抜擢し、藩政改革を命じた。1858年から安政の改革を断行し、有能な下級家臣を
登用して洋学の振興、洋式兵器の整備による軍事改革を始めた。同じ頃、萩城下では吉田松
陰の松下村塾が青年らの心を捉え、その草莽崛起論は高杉晋作・久坂玄瑞ら維新激動期に羽
ばたく人材を輩出した。1861年直目付の長井雅楽が献策した『航海遠略策』が幕府の支
援を受けたが、1862年尊王攘夷派の久坂らに反対され、長井雅楽は切腹した。7月敬親
は京都で世子や支藩藩主を含めた会議を開いて藩論を尊王攘夷に統一して、これ以後一年間
、長州系尊攘激派が京都政局を牛耳る端緒を開いた。1863年4月敬親は攘夷に備えて沿
岸の萩城から山口に藩庁を移し、5月下関海峡を通航する米国商船や仏・蘭軍艦を砲撃し、
攘夷戦争〔下関戦争〕を決行した。米・仏は報復を開始、下関砲台を攻撃、上陸して諸砲台
を占領され、米・仏の反撃に無力さを痛感した藩は高杉晋作に新たな軍隊〔奇兵隊〕創設を
命じた。8月18日長州藩尊攘激派の京都における台頭を懸念した薩摩藩・会津藩は、朝廷
を動かしてクーデターを敢行し、長州勢力を京都から追放。三条実美ら尊攘派七公卿は長州
へ亡命した〔七卿都落ち〕。1864年7月京都の主導権奪還を狙って上京した久坂玄瑞ら
は御所蛤門付近の戦闘で敗退〔禁門の変〕。『禁門の変』で口実を得た幕府は追い打ちをか
けるように『第一次長州征伐』を命じ、尾張藩主徳川慶勝を征長総督とする幕府の大軍が包
囲し、長州藩は敗北した。存亡の危機を迎え、佐幕派の俗論党が政権を握り、恭順の道を選
んだ。その結果、官位と称号を剥奪され、三家老の切腹、四参謀を斬首して謹慎した。18
58年12月高杉晋作率いる奇兵隊は俗論党打倒の兵を挙げ、1859年尊攘派は再び藩内
の主導権を握った。高杉らは藩政権を握ると、『武備恭順』を藩是としながら急速に討幕へ
と向かった。1866年坂本龍馬の斡旋により薩長同盟を結ばれ、『第二次長州征伐』が開
戦すると長州軍は士気が上がらない幕府軍を破り、1867年10月に敬親は討幕の密勅を
受け、11月藩兵を率いて東上、12月官位を復した。1868年1月『鳥羽伏見の戦い』
で薩摩・長州軍は幕府軍を破り、1869年1月の版籍奉還では敬親はその必要性を説く木
戸孝允の意見を容れて薩摩・土佐・肥前の三藩主に奉還を奏上させた。1870年6月敬親
は権大納言に進み、世子元徳とともに賞典禄10万石を下賜され、家督を元徳に譲って敬親
は隠居した。元徳は山口藩知事に任じられ、1871年廃藩置県を迎える。1874年建物
が破却され、1951年萩城跡・1567年萩城下町が国指定史跡、2006年日本100
名城に選定された。現在は萩城跡指月公園と称され、観光客、地元の憩いの場となっており
、曲輪、石垣、水堀などが残る。
【所感】阿武川が河口付近で橋本川と松本川に分流する三角州に萩城跡と城下町が在ります
。城の南側は城下町と川に守られ、北・東・西側は海に囲まれていますが、北側は指月山が
あるので、東側と西側の海岸線沿いに海の監視所のように櫓が並んで配置されています。本
丸に天守・本丸御殿、それ以外は目立った建物は無く、防御に固く、派手さの無い造りにな
っています。しかし、撮影する側としては櫓台や門跡、指月山山頂の詰丸と全ての遺構を撮
り歩いていると中身の濃い、いい城跡であることが実感出来ます。時間の都合で今回は城下
町が撮れなかったので、津和野城跡の城下町と合わせて再訪、撮影したいと思います。
毛利輝元公座像・二の丸南門枡形虎口
二の丸南門枡形虎口
塩櫓台・二の丸
二の丸塩櫓北の土塁〔石垣〕
二の丸東門枡形虎口
華櫓台
銃眼土塀裏の枡形虎口
銃眼土塀
潮入門跡
荒川櫓台
満願寺櫓台
三摩地院櫓台
妙玖寺櫓跡
二の丸八間櫓台
二の丸青海櫓台
二の丸櫓門跡
本丸西門跡と土橋
月見櫓台・本丸
史跡 萩城趾碑・本丸
本丸内門枡形虎口跡
本丸・志都岐山神社
天守台東側の雁木・本丸
天守台・本丸
天守台北側の石垣・本丸
天守台西側の石垣・本丸
天守台西側の内堀・本丸
詰丸(指月山)登城口・本丸
詰丸登城道
詰丸枡形虎口・二の丸
用水槽・二の丸
二の丸
棟門跡
本丸・矢穴石
貯水池・本丸
埋門(裏門)跡・本丸