出羽 長瀞城
Nagatoro castle
長瀞城跡【山形県東根市長瀞】
長瀞公民館【山形県東根市長瀞1259】
長瀞児童センター【山形県東根市長瀞1322】
【立地】平城
【別称】雁城・長瀞陣屋
【歴史】応永年間(1394~1427年)、最上満家の隠居城として築城されたが、建長年間(1
249~1255年)、西根氏が築いた城を改修したとも云われ、ハッキリしない。戦国期は長瀞左
衛門の居城となり、天童氏に属して最上義光と戦ったが、1584年天童氏滅亡後、最上義光が城郭
整備行ったと云う。その後、廃城。1600年「関ヶ原の戦い」の後は山形藩の所領となり、164
3年以降は幕領となった。1798年武蔵国久喜1万1000石米津通政が領地6400余石を村山
郡内に移され、長瀞藩を立藩。米津氏は定府大名であった為、国入りすることは無かったが、通政の
後、政懿-政易-政明-と続き、1865年政明は家督を嫡男政敏に譲り、隠居地として長瀞陣屋へ
入った。政明は庄内藩主酒井忠器の七男であった為、奥羽越列藩同盟に参加し、1868年「戊辰戦
争」の際、天童藩の攻撃を受けて陣屋は陥落。政明・政敏父子は実家の庄内へ逃れた。1869年政
敏は上総国大綱1万1000石へ転封、廃藩となった。現在は住宅に変わり、水堀、曲輪が残る。
【所感】国道13号線東根温泉口信号交差点を西へ入ると、3本目の辻の両脇に二の堀が走り、右手
に長瀞城址の石碑、左手に大きな案内図が設置されています。水堀を追って歩くことになると思いま
すが、案内図で方角や位置関係をしっかり確認してから探索して下さい。大半は住宅になっています
が、主な建物として一の堀の内側には宝筐印塔が建つ八幡神社、二の堀の内側には長瀞児童センター
、三の堀の内側には長瀞公民館などが在り、更にその外側に四の堀も在ったようですが、現在は見当
たりません。やはり、長く四角く残る水堀跡は見応えがあります。
「一の堀」西側/「二の堀」東側/「三の堀」東側
「二の堀」西側/長瀞城址の石碑/八幡神社本殿横の宝筐印塔
「二の堀」南側〔写真:左〕大手門跡〔写真:右〕