遠江 中尾生城
Nakabiu castle
中尾生城跡【静岡県浜松市天竜区龍山町大嶺】
【立地】山城
【別称】中日向城・中日尾城
【歴史】南北朝時代(1337〜1392年)、犬居・平山・大嶺一帯を支配した天野氏が
築いた山城〔標高479m、比高265m〕とされるが、確証は無い。1494年頃から始
まる今川氏親の遠江侵攻に際し、天野氏は今川氏に与するが、1526年氏親没後、当主氏
輝との関係が悪化。氏輝は天野領内に侵攻、大峰郷と中尾生城を占拠。1529〜1530
年頃、中尾生城に二俣近江守を入れ、1535年匂坂長能に現地支配を命じた。1536年
氏輝が没し、1537年今川氏に反抗した堀越氏が立て籠もる見付城を天野氏が攻略、15
38年今川義元は天野氏を許した。1560年「桶狭間の戦い」で今川義元が討たれると、
勢力が弱体化し、1567年今川氏真は北遠地区の支配を強化すべく、奥山定友・友久に中
尾生城の普請を命じた。1569年天野氏・奥山氏は徳川家康の配下になり、1571年武
田信玄の調略で天野氏、1572年奥山氏も武田氏の軍門に降った。1575年「長篠・設
楽原の戦い」で武田氏が敗れると、徳川家康は北遠の城を次々の奪取し、1576年犬居の
天野氏は信濃へ敗走、中尾生の奥山定友・友久兄弟も敗走した。現在は山林となり、曲輪、
土塁、横堀、堀切が残る。
【所感】北の小芋川、南の白倉川に挟まれた山城です。天竜川沿いの国道152号線から白
倉川沿いの県道381号線〔白倉西川線〕へ入ります。1.9キロ程西進した右手の橋を渡り
、中日向集落内を通って2キロ程車で登ると、右手に中尾生城跡の標柱、左手に2台程止め
られるスペースが在ります。ここから標柱に従って砂利道を25分程歩いて最高所を目指し
ます。本曲輪近くに来ると、正面の細道に標柱が立ち、本曲輪へ向かって入って行きます。
最後の標柱が立つ丸太段の右手に小さな曲輪が在りますが、これが二重堀の外堀で、横堀が
土に埋もれ、外側の土塁も分からなくなっています。丸太段から逆に下へ降りた広い平坦地
が本曲輪の西側を護る曲輪です。丸太段を登ると、正面から左手奥に掛けて二重堀の内堀、
その外側を土塁が囲みます。正面(本曲輪南側)の獣道を進むと、二の曲輪×本曲輪間の尾
根に出て、左の坂を登って赤い鳥居を潜ると本曲輪です。本曲輪には城山稲荷の祠が建ち、
虎口以外は土塁を持たない平坦地です。本曲輪から戻って坂を降った正面が二の曲輪です。
足元は幼木とシダに覆われ、中央部が盛り上がっていることは分かりますが、その全容を撮
ることは出来ません。本来、二の曲輪×本曲輪間から北側に降りる道があって、東尾根の大
手曲輪・馬出曲輪・堀切に行けるはずですが、根っこから倒れた大木に阻まれて道が塞がれ
ていました。中尾生城跡に限らず、犬居城跡や堀之内の城山もそうですが、城跡まで案内し
てくれる標柱は分かり易くて大変助かりますが、肝心の城郭内が荒れた状態で、形がよく分
かる遺構が撮れません。天竜区の方で整備、管理をして頂けたら嬉しいです。
中日向集落入口
登城口への道・中日向集落
登城口への道・最後のヘアピンカーブ
登城口
登城道
最後の標柱と丸太段
埋もれた二重堀の外堀・本曲輪西側
本曲輪北西側の曲輪
二重堀の内堀・本曲輪西側
本曲輪までの道
本曲輪手前の城山稲荷の鳥居
右に土塁が在る本曲輪虎口
本曲輪
二の曲輪