琉球 中城城
Nakagusuku castle
中城城跡【沖縄県中頭郡北中城村大城503】
ごさまるショップ【沖縄県中頭郡北中城村大城512】
普天間自動車学校【沖縄県中頭郡北中城村大城480】
【立地】山城
【ユネスコ世界文化遺産】琉球王国のグスク及び関連遺産群
【国指定史跡】中城城跡
【歴史】標高167mの琉球石灰岩台地に築かれた山城で、築城は発掘調査や伝承などから
14世紀中旬とされる。伝承によると、伊波グスク初代伊波按司の十男が当地に送り込まれ
、台グスクに居ながら築城を開始。数世代に亘り約90年間断続的に南の郭・一の郭・二の
郭・西の郭を築いたと云う。伊波按司の十男が初代中城按司となり、3代目までを先中城按
司と呼んでいる。尚、先中城按司は伊波按司系統ではなく、浦添グスクの英祖王の子大成王
の系統とする説もある。1406年思紹・尚巴志父子が中山王・武寧の浦添グスクを滅ぼし
、1416年北山王の今帰仁グスクを落とし、1429年南山王の大里グスクを攻略して琉
球を統一。三山時代に終止符を打ち、第一尚氏王統時代に入る。初代思紹−2代尚巴志を経
て、1440年第一尚氏王統3代尚忠の命により、座喜味グスクから護佐丸が中城グスクへ
移り、三の郭・北の郭を増築、先中城按司は糸満の真栄里グスクへ移った。1458年第一
尚氏王統6代尚泰久の娘婿であった勝連按司阿麻和利が王権奪取を企てる。先ずは王府の有
力武将護佐丸に謀反の疑いを掛け、自ら王府軍を率いて中城グスクへ出陣、護佐丸・夫人・
長男・次男を自害させた。しかし、阿麻和利の夫人百度踏揚[尚泰久の娘]は、自身の側近
大城賢雄から夫の中山攻略を知らされ、直ちに父尚泰久へ報告。尚泰久は自ら命じた護佐丸
討伐を悔い改め、城の護りを固め、首里城の戦いで阿麻和利軍を撃破。勝連城へ敗走した阿
麻和利は大城賢雄を大将とする政府軍に討ち滅ぼされた。護佐丸没後、中城は王府の直轄領
になる。1469年第一尚氏王統7代尚徳没後、首里城で不満勢力によるクーデターが起こ
り、第一尚氏王統滅亡。1470年第二尚氏王統初代尚円の時代に入ると、中城グスク、及
び、中城の地は世子である中城王子の領地となる。1609年島津軍の侵攻で琉球王国は薩
摩藩の支配下となり、薩摩・徳川に従属しつつ、王国を存続する複雑な体制となった。17
29年中城グスク一の郭に中城間切番所が置かれる。1853年マシュー・ペリー提督の探
検隊が中城グスクの調査・スケッチを行う。1879年廃琉置県により沖縄県となるが、中
城間切番所は継続して一の郭に置かれ、1897年中城間切役所に改称、1908年町村制
の実施により中城村役場となる。1945年第二次世界大戦で中城村役場は焼失したが、石
垣の損傷は少なく、1972年国指定史跡、2000年ユネスコ世界文化遺産「琉球王国の
グスク及び関連遺産群」、2006年日本100名城に指定される。現在は曲輪、石垣、ア
ーチ門、井戸が残る。
【所感】中城城跡は最高地の「一の郭」から東に「二の郭」「三の郭」と並び、何れも城壁
東面の中央部が凹んだ平面アーチになっていることが特徴。三の郭北側に「北の郭」、二の
郭・一の郭北側に「西の郭」、一の郭西側に「南の郭」も在ります。平面アーチや曲がりく
ねった城壁は敵兵を射ち落すための横矢掛りになっています。他にもアーチ門や井戸、武者
走りなど見所満載の中城城跡。建物が無くても楽しめる城跡です。
世界遺産 中城城跡の石碑
カンジャ−ガマ・鍛冶屋跡
正門へのアプローチ
正門
南の郭へのアプローチ
南の郭アーチ門跡
南の郭
南の郭×一の郭間のアーチ門
一の郭
一の郭の城壁・武者走り
一の郭×二の郭間のアーチ門
二の郭
三の郭
三の郭入口の石段
古城(クーグスク)の裏門
北の郭
ウフガー・大井戸・北の郭
裏門(搦手門)・北の郭