琉球 今帰仁城
Nakijin castle

今帰仁城跡・今帰仁村グスク交流センター【沖縄県国頭郡今帰仁村今泊5101】
              シイナ城跡【沖縄県国頭郡今帰仁村呉我山】
       今帰仁村歴史文化センター【沖縄県国頭郡今帰仁村今泊5110】
               城の茶屋【沖縄県国頭郡今帰仁村今泊4874】


【立地】山城
【別称】北山城・北山グスク

【ユネスコ世界文化遺産】琉球王国のグスク及び関連遺産群
【国指定史跡】今帰仁城跡附シイナ城跡

【歴史】標高105mの山城で、築城は13世紀末頃に始まり、14世紀後半~15世紀前
半に完成したと考えられる。1187年25代続いた天孫王統が滅び、源為朝の遺子と伝え
られる『尊敦』こと『舜天』によって開かれた中北山時代・舜天王統が始まる。1237年
舜天没後、その子『舜馬順煕』が2代中山王に就くと、舜馬順煕の次男は初代『今帰仁世の
主』として今帰仁グスクに入封、中北山王統の開祖となる。2代目『今帰仁世の主』に後継
者が無く、天孫氏の流れを汲む『英祖王」の次男『湧川王子』が3代目となるが、子千代松
『丘春』の誕生祝いの日、本部大主が謀反〔北山騒動〕を起こして城を奪取する。難を逃れ
た丘春は、18年後、本部大主を討って城を取り返すが、1322年『怕尼芝』によって滅
ぼされ、今帰仁グスクを拠点とする北山王になる。後北山王統の開祖となった怕尼芝は金武
・名護・羽地・国頭を統括し、中国貿易の道を開拓した。1389年怕尼芝の跡を継いだ長
男『珉』は僅か5年で没し、1396年跡を継いだ『攀安知』は中国貿易を積極的に行う一
方、強圧的な独裁政治を行っていた。1416年北山の名護按司・羽地按司・国頭按司ら反
攀安知軍+浦添按司・越来按司・読谷山按司の巴志中山軍が勘手納湊に終結、陸路と海路か
ら今帰仁を包囲した。攀安知の大将本部平原の裏切りで攀安知を城から誘き出し、今帰仁グ
スクは落城、後北山時代に終止符が打たれた。1422年『巴志』の次男『尚忠』が北山〔
今帰仁〕監守として派遣され、監守時代が始まる。『尚忠』が第1尚氏王統・3代琉球国王
に即位すると、弟の具志頭王子が監守を継ぎ、第2尚氏王統になっても引き継がれた。16
09年薩摩軍侵攻の際、建物が焼失。1665年第2尚氏王統10代『尚質』の時代、7代
監守は一族の首里引き揚げが許され、監守時代が終わる。1962年平郎門を復元。197
2年国指定史跡、2000年ユネスコ世界文化遺産「琉球王国のグスク及び関連遺産群」、
2006年「日本100名城」に指定される。2010年国指定史跡「今帰仁城跡附シイナ
城跡」に改称され、現在は曲輪、石垣が残る。

【所感】今帰仁城跡は志慶真門郭・主郭・御内原・大庭・大隅・外郭などが並ぶ、連郭式の
城で、石垣は高さ3~8m・幅1.5m・全長1.5km程とされます。特に大隅郭や志慶真門
郭を囲む石垣は高く・長く、見応えがあります。この感動をどう写真に収めるか?3度訪ね
ていますが、答えが出るまで撮り続けたいと思います。





主郭



火神の祠と山北今帰仁城監守来歴記の碑・主郭



礎石建物跡・主郭



基壇建物跡・主郭





主郭東端の石垣



主郭南端の石垣と志慶真門郭へ下りる門







志慶真門郭と掘立柱建物跡



志慶真門郭西端の石垣



志慶真門郭南端の志慶真門跡



志慶真門郭東端の石垣



御内原



テンチジアマチジ(城内上の御嶽)・御内原



大庭



志慶真乙樽の歌碑・大庭



ソイツギ(城内下の御嶽)・大庭



平郎門から大庭へ上る旧道





大隅とそれを囲む石垣



大隅東端の石垣



大隅北端の石垣





平郎門・大隅







外郭から見た大隅南端の石垣







外郭を囲む石垣



古宇利殿内・外郭



炉跡を伴う掘立柱建物跡・外郭



今帰仁阿応理屋恵火之神の祠・外郭



今帰仁ノ口殿内火之神の祠・外郭