三河 合歓木城
Nemunoki castle
合歓木城跡【愛知県岡崎市合歓木町下郷間】
神明社【愛知県岡崎市合歓木町下郷間183】
源空院【愛知県西尾市西浅井町札木30】
【立地】平城
【別称】合歓木村古城
【鵜殿松平家】康孝
【歴史】築城年は定かではない。松平宗家6代信忠の次男信孝が三木城へ移るまでの居城とされる
。三木城は信忠の三男康孝〔〜1542年〕の居城であったが、嫡子が無く、信孝〔〜1548年
〕が入り、三木松平家の祖となる。1535年「守山崩れ」で松平宗家7代清康没後、信孝が岩津
松平親長と信孝の弟康孝の領地を横領し、松平宗家を脅かす存在となる。岡崎老臣衆は宗家の危機
感を感じ、病気の広忠に代わり、信孝に駿府〔今川義元〕の年頭参賀へ行かせ、不在の間に信孝の
知行、屋敷を占拠。これを不服とした信孝は、織田信秀方へ与し、1543年松平宗家8代広忠は
信孝を追放。1547年信孝は上和田城主松平忠倫、上野城主酒井左衛門尉らと織田信秀軍として
岡崎城へ出陣し、1548年「小豆坂の戦い」を経て、「耳取縄手の戦い」で広忠軍の矢に当り戦
死した。信孝没後、嫡子重忠〔1540〜1601年〕が継ぎ、重忠の嫡子忠清は嫡子無く没した
為、忠清の弟忠利が継いだ。場所は神明社・下合歓木公民館の東側一帯とされ、現在は住宅、畑地
に変わり、遺構は無い。
【所感】西に矢作川、東に東海道新幹線が走るエリアになります。神明社の北東角に合歓木城主若
狭守正道の末裔で帝國教育会長・辻新次〔通称:霞舟〕の功績が書かれた石碑が立っています。
神明社〔写真:左〕霞舟君功績碑〔写真:右〕
松平康孝公の墓・源空院〔写真:左〕當山開基松平十郎三郎康孝公菩提寺の石碑・源空院〔写真:右〕