三河 西方村古屋敷
Nishikata old residence
西方村古屋敷跡【愛知県豊川市御津町西方字中屋敷】
ハタノ株式会社【愛知県豊川市御津町西方字中屋敷43−9】
忠勝寺【愛知県豊川市御津町西方字松本89】
【立地】平地
【別称】西方陣屋・西方古塁
【町指定史跡】
【歴史】1590年池田輝政が吉田城主になると、田原・西方・新城・牛久保に拠点となる城塁を築か
れ、西方は森寺政右衛門忠勝が築塁して住んだ。東西330m×南北220mの規模で幅10mの堀を
巡らし、内側に土塁を設けた。1612年深溝松平忠利が吉田城主となると、弟松平忠貞が1000石
で当地に陣屋を構えた。その子忠高は1200石の知行を返上し、蔵米取りとなって江戸へ移住した。
城塁は家老の永沢太郎左衛門が貰い受け、帰農したが、代官の鈴木八右衛門の命により鈴木姓を称して
代々この塁跡に住んだ。現在は土塁、堀の一部が残る。
【所感】国道23号線と県道31号線が交差する御津町入浜信号から国道23号線を豊橋方面へ進み、
西方信号を過ぎた次の太い脇道を左折します。東海道新幹線を潜り、700m程進むと、ハタノ株式会
社の手前左手に西方古塁跡の名で看板が立っています。横手に周るとフェンスの切れ目から中に土塁・
堀を確認することが出来ます。近くの忠勝寺は西方古塁の鬼門の方角に建てられたお寺で、確認はして
いませんが、1599年に亡くなった森忠勝の墓があるそうです。
西方古塁跡の看板
西方古塁の土塁と堀〔写真:左〕忠勝寺〔写真:右〕