三河 西大平陣屋
Nishiohira Jinya
西大平陣屋跡【愛知県岡崎市大平町西上野】
男川小学校【愛知県岡崎市大平町中道17】
専光寺【愛知県岡崎市大平町西植野74】
【立地】平地
【別称】西大平藩陣屋・大岡越前守陣屋
【西大平藩】1748〜1871年
【歴史】1748年「大岡裁き」「大岡越前」で知られる大岡越前守忠相(1677〜1751年)が
構えた陣屋である。大岡氏は藤原氏後裔で、三河国八名郡宇利郷から同郡大岡村に移住した際に「大岡
氏」を称し、忠勝の時、松平宗家8代広忠、家康に仕えた。忠勝の「忠」の諱は松平広忠の「忠」に由
来する。その後、1529年「吉田城攻め」、1563〜1564年「三河一向一揆」で戦功を挙げ、
1594年没する。忠勝の三男忠政が家督を継ぎ、忠世−忠真と続いた。忠相は、1677年2700
石の旗本大岡忠高の四男として生まれ、10歳の時、同族の1920石の旗本大岡忠真の養子となる。
1700年家督を継ぎ、書院番士となり、御徒頭、使番、目付を経て、1712年伊勢山田奉行となる
。在任中、公平無私な裁判に感服したのが、紀伊国和歌山藩主徳川頼方〔後の徳川8代将軍吉宗〕。1
716年普請奉行、1717年江戸町奉行に抜擢された。40歳の若さで町奉行に就任し、19年間の
在職は異例であったと云う。1736年万石格の寺社奉行、1748年奏者番を兼務し、それまでの三
河国碧海郡内5920石に加え、三河国宝飯、額田、渥美、加茂四郡内、相模、武蔵、上総、上野国内
4080石を得て、1万石で西大平藩主となった。忠相の業績として、目安箱の設置、町火消の創設、
出版統制、札差仲間の限定、米価調整、新田開発などがあり、吉宗時代で最も有名な官僚であった。1
751年忠相没後、忠宜が継ぎ、忠恒−忠与−忠移−忠愛−忠敬と7代続いて、1871年廃藩となる
。現在は門、塀が復興され、大岡忠相に関する説明看板が立つ。
【所感】東名岡崎インター南にある男川小学校西隣りに陣屋が在ります。門、塀に囲まれ、陣屋らしい
雰囲気を出しています。時代劇ドラマ「大岡越前」で知られる忠相は、江戸町奉行として将軍吉宗に仕
え、幕府財政再建では数々の才能を発揮しました。陣屋地は東海道〔国道1号線〕に近いことが立地の
決め手だったようです。
復興 西大平陣屋門
模擬 冠木門〔写真:左〕大岡神社〔写真:右〕
陣屋跡敷地内