日向 延岡城
Nobeoka castle
延岡城跡【宮崎県延岡市東本小路】
城山公園【宮崎県延岡市東本小路178】
勤労福祉会館【宮崎県延岡市東本小路132-23】
ファミリーマート城山公園前店【宮崎県延岡市東本小路5-4】
【立地】平山城
【別称】県城・亀井城
【市指定史跡】
【歴史】1587年豊臣秀吉の九州平定後、島津征伐で功を挙げた豊後国香春岳城主高橋元種が日向国
県〔あがた〕へ移り、臼杵・宮崎・児湯・諸県の各郡内で5万石3000石の城主となり、松尾城を居
城とした。1600年「関ヶ原の戦い」の後、県〔あがた〕城跡の延岡山〔標高53m、比高50m〕
に築城を始め、1603年に完成したと云う。1613年元種は、幕府より水間勘兵衛隠匿の罪を問わ
れて改易となり、常陸国へ配流となった。1614年肥前国日野江より有馬直純が1万3000石の加
増を受けて5万3000石で入封。直純はキリシタン大名有馬晴信の子であったが、後に仏教に帰依し
て宮崎郡柏田村に直純寺を建立、1638年「島原の乱」に出陣している。1641年直純没後、2代
は康純が襲封。弟元純に諸県郡本庄3000石を分知したが、1644年病により退いた為、本庄30
00石は天領となった。1655年康純は居城の本丸を修築して三重の櫓を建てる。1679年3代清
純が襲封すると、弟の正純に1800石、純正に1000石と何れも開拓新田を分与した。1690年
臼杵郡山陰の農民1422人が高鍋藩領の股野原に逃散する事件が起こる。年貢の重課と酷政が原因で
あったが、農民達は帰参の命に応じず、1691年21人が磔刑・打首・遠島処分を受けた。同時に郡
代も追放処分を受け、1692年清純も越後国糸魚川へ転封となった。この年、有馬氏により県〔あが
た〕→延岡に改称された。替わって下野国壬生より三浦明敬が3000石の加増を受けて2万3000
石で入封。三浦氏は譜代大名であったが、延岡藩主としては最も石高の少ない藩主であり、石高縮小か
ら日向国に於ける天領は拡大した。1712年明敬は三河国刈谷へ移り、三河国吉田より牧野成央が臼
杵・宮崎・児湯3郡、及び、豊後国大分・国東・速見3郡内で8万石を領した。1719年成央没後、
2代前の成貞の子貞通が養子となって入封した。1742年から7年間、貞通は京都所司代に任ぜられ
、8万石のうち3万石を河内・近江・丹波・美濃国内に領地替えとなる。1747年貞通は京都所司代
在職中に常陸国笠間へ転封となり、陸奥国磐城平から内藤政樹が7万石で入封。その後、1756年政
陽-1770年政脩-1790年政韶―1802年政知-1806年政順-1834年政義-1862
年政挙と続き、1871年廃藩置県を迎える。現在は城山公園となり、曲輪、石垣、井戸跡などが残る。
【所感】北の五ヶ瀬川、南の大瀬川に挟まれた中州に位置します。宮崎県で最初に訪ねた城跡です。フ
ァミリーマート城山公園前店前の道を西進し、左手の勤労福祉会館を過ぎた突き当たりに城山公園の駐
車場が在ります。櫓台や門跡、井戸跡などの遺構を見ることが出来ますが、最も有名な遺構が本丸北西
角にある「千人殺し」と呼ばれる高さ22mの石垣。下の石を1つを外すと石垣全体が崩れ落ち、千人
を殺すことが出来るというものです。
石御門跡横の石垣・搦手口
石御門跡・搦手口
三ノ丸跡
井戸跡
北大手門
「千人殺し」・本丸北西角石垣
二の丸の櫓台と井戸跡
二階櫓台
二階門櫓跡・本丸虎口
天守曲輪の虎口
天守台跡
三階櫓台
内藤家墓所