三河 能見城
Nomi castle
能見城跡【愛知県岡崎市元能見町・柿田町】
城跡碑・朝浦興業【愛知県岡崎市元能見町33】
観音寺【愛知県岡崎市城北町15−17】
【立地】平城
【別称】能見村古屋敷
【能見松平家】光親 ― 重親 ― 重吉 ― 重勝 ― 重忠 = 重直 ― 英親 ― 重栄 ― 重休 =
親純 ― 親盈 ― 親貞 = 親賢 = 親明 ― 親良 ― 親貴
【歴史】時期は不明。松平宗家3代信光が築城し、信光の子光親が松平城山城〔豊田市大内町〕から移
り、能見松平氏の祖となる。光親は父の松平宗家3代信光・4代親忠に仕え、能見・阿知和を領した。
1536年光親没後、2代重親は松平宗家長親〔桜井松平家初代〕・信忠に仕えた。1558年3代重
吉〔1493〜1580年〕は松平元康〔家康〕の初陣「寺部城攻め」、1563年「三河一向一揆」
、1575年「二俣城攻め」で戦功を挙げた。4代重利〔1537〜1560年〕は桶狭間の戦いで没
し、5代は3代重吉の四男重勝〔1549〜1620年〕が家督を相続した。1590年家康関東移封
に伴い、関東へ移る。1612年越後国三条藩・1617年下総国関宿藩・1619年遠江国横須賀藩
の藩主を務め、1620年に没した。転封を繰り返し、明治まで存続した。観音寺の北辺りが城郭の中
心部とされ、現在は民家に変わり、伊賀川沿いの民家の玄関先に城跡碑が立つ。
【所感】国道248号線末広町信号を東へ曲がり、200m程進むと、右手に観音寺が在ります。この
寺には能見松平氏〔光親・重親・重吉〕の墓、初代光親の二男で梶氏の初代松平親友の碑、梶氏の墓が
在ります。伊賀川に架かる神明橋を渡り、川沿いの道を左へ60m程進むと、民家の玄関口に「松平氏
能見城跡」の石碑が立っています。城跡の場所はハッキリしていませんが、城跡碑を中心とする80m
四方のエリアで、伊賀川と西岸の柿田町に及びます。嘗て観音寺の西側を流れていた柿田川は、現在は
観音寺の東側を流れ、「伊賀川」の名で城跡を二分しています。
松平氏能見城跡の石碑〔写真:左〕能見松平氏初代光親・2代重親の墓・観音寺〔写真:右〕
能見松平氏3代重吉の墓・観音寺〔写真:左〕光親の次男親友の石碑・観音寺〔写真:右〕