駿河 沼津城
Numazu castle
沼津城跡【静岡県沼津市大手町2丁目・3丁目・4丁目・5丁目】
静岡銀行沼津支店【静岡県沼津市大手町4丁目3−45】
【立地】平城
【別称】沼津新城・観潮城・三枚橋城
【歴史】沼津城の前身である三枚橋城は、1579年頃、駿河・伊豆国境の最前線の拠点と
して武田勝頼が築いたとされる。1582年「天目山の戦い」で武田氏が滅亡すると、駿河
国を領有した徳川家康は三枚橋城に松平周防守康親・康重父子を置き、1590年秀吉の「
小田原攻め」で北条氏が滅亡すると、秀吉は中村一氏を駿府城に入れ、弟の一栄を三枚橋城
主とした。1600年「関ヶ原の戦い」で徳川方に属した中村氏は伯耆国米子17万500
0石へ移り、1601年大久保忠佐が2万石で沼津藩を立藩。1613年忠佐没後、嫡男忠
兼は既に没しており、弟忠教も辞退した為、無嗣絶家で廃藩となった。以後、沼津は駿河藩
主徳川頼宣、徳川忠長の領地に編入され、1777年まで幕領となった。同年11月御用人
水野忠友が三河国大浜から2万石で入封、三枚橋城跡地に沼津城を築城、再立藩した。17
81年駿河・三河・伊豆国内5000石を加増、御用人兼老中格に進み、1785年老中に
昇進、5000石加増で3万石となった。松平定信の登場で忠友は老中を罷免されたが、定
信引退後、1796年再び西の丸老中となる。次の忠成は、10代将軍家治の世子家斉の小
姓となり、家斉が11代将軍になると奏者番・若年寄・西の丸御用人を歴任し、1817年
老中格に昇進、1818年老中首座となった。1821年1万石加増、1827年1万石加
増を受け、計5万石を領有した。忠義−忠武―忠良と続き、1858年次の養子忠寛〔水野
忠紹の子〕が家督を相続し、奏者番・御用人を歴任したが、病気を理由に隠退、養子忠誠〔
本多忠孝の四男〕に家督を譲った。忠誠は奏者兼寺社奉行を務め、1865年第2次長州征
伐に出陣、同時に老中に就いたが、帰路で病没、それを秘して、1866年分家の海軍奉行
忠敬〔水野忠明の次男〕が襲封した。忠敬は尾張藩主徳川慶勝の指揮に従い、東征先鋒総監
督柳原前光の警衛を務めた。甲府城代となり、不品行で罷免されるが、祖父忠寛の努力で藩
存続の危機を免れた。1868年徳川家達の府中藩創設によって沼津藩領は上知となり、忠
敬は上総国菊間へ転封、廃藩となった。現在は公園、建物、道路となり、遺構は無い。
【所感】東海道新幹線沼津駅南側の大手町に三枚橋城が在ったようですが、現在は中央公園
の片隅に城址碑・歴史看板があるぐらいで、道路、建物に姿を変え、城の雰囲気は全くあり
ません。現在も地中に眠っている遺構があると思いますが、城の石が見える形で使われてい
る点は良いことと感じました。
発掘された石垣の石に囲まれた沼津城本丸址の石碑・中央公園
復元 三枚橋城本丸付近の石垣・静岡銀行沼津支店
狩野川の護岸に使われた沼津城の石