相模 小田原城
Odawara castle
小田原城【神奈川県小田原市城内3−22】
【立地】平山城
【別称】小早川館
【天守の構成・形式】複合式層塔型天守
【国指定史跡】小田原城跡
【歴史】鎌倉時代初期、幕府の重臣小早川遠平が館を築いたことに始まる。1416年「上
杉禅秀の乱」の戦攻により、大森頼春が小田原城を与えられる。1495年藤頼の時、北条
早雲に攻め取られる。その後、氏綱−氏康−氏政と続き、城の改築、拡張工事を行う。氏政
の時、1561年上杉謙信、1569年武田信玄に攻められるが、何れも撃退。1590年
「小田原城攻め」で秀吉の大包囲網で、籠城の末に開城。関八州は徳川家康の支配下となり
、小田原城は大久保忠世が4万石で入る。忠世は、後北条時代の被官、農民を援け、寺社の
旧領を安堵し、民政の安定化に努めた。後に5000石の加増を受け、1594年に没した
。忠世の子忠隣が後を継ぎ、武蔵国羽生より移り、6万5000石で入る。忠隣は、159
3年より秀忠付きの年寄で、江戸幕府創始者の一人として活躍したが、本多正信と対立し、
大久保長安の不正に連座したとされ、1614年改易となり、1628年配流地の近江で没
した。この後、小田原城の石垣、外郭の一部が取り壊され、代官領となったが、1619年
上総国大多喜から、5万石で阿部正次が入った。1623年正次転封により、再度、代官領
となる。1632年春日局の実子稲葉正勝が8万5000石で入封し、正則−正通と続いた
。1686年大久保忠朝10万3000石で入り、忠増と続くが、1703年関東大地震、
1707年富士山噴火で降灰が1ヶ月以上続き、酒匂川の氾濫などで城地が壊滅状態となり
、藩領東部を上地して、幕府に復興を預けた。その後も大久保氏が忠方−忠興−忠由−忠顕
−忠真−忠愨−忠礼と続き、忠良で廃藩となり、1870年廃城となる。1960年天守、
1971年常盤木門、1997年銅門、2009年馬出門が復元され、曲輪、石垣、水堀、
土塁などが残る。
【所感】小田原城は水堀、櫓、門、天守など見所が多く、外国人の方も多く訪れます。今回
は桜の時期に訪ねたので、駐車場に入れないほど沢山の人でした。遺構は観光地化された主
要エリア以外にも、門跡・曲輪、総構の堀・堀切・土塁などが点在し、1日ではとても回れ
ません。次回は総構の遺構を撮りに出掛けたいと思います。
二の丸平櫓・二の丸南東隅櫓
銅門土塀模型と伝銅門礎石・二の丸
馬出門と土橋(めがね橋)
馬出門・内枡形虎口
馬出曲輪
馬屋曲輪隅櫓台
馬屋曲輪東堀
御茶壺曲輪(馬出曲輪・捨曲輪)の土塁
南曲輪南堀
報徳二宮神社・小峰曲輪
小峰曲輪北堀・北条氏時代の堀
銅門と住吉橋
住吉堀
銅門・内枡形虎口
本丸東堀跡と九輪橋
本丸東堀跡
常磐木門・内枡形虎口・本丸
常磐木門内部
天守から見た常磐木門
天守から見た「八幡山古郭 東曲輪」
天守から見た御用米曲輪
三重四階 復元 天守・本丸
滑り落ちた本丸石垣・本丸南面
大手門石垣・三の丸
三の丸幸田門跡
三の丸土塁・幸田門跡
箱根口門の石垣・三の丸