三河 岡山陣屋
Okayama Jinya
岡山陣屋跡【愛知県西尾市吉良町岡山字殿町】
華蔵寺【愛知県西尾市吉良町岡山字山王山59】
黄金堤【愛知県西尾市吉良町岡山字下り松】
円融寺【愛知県西尾市吉良町宮迫字四反田92】
真正寺【愛知県西尾市吉良町富好新田字蔵井戸19】
【立地】平地
【別称】吉良陣屋・椿屋敷・俊継尼屋
【歴史】天正年間(1573〜1592年)に築かれた吉良義定の居館とされる。1590
年関東移封で一時廃され、1600年「関ヶ原の戦い」の後、その子義弥〔1586〜16
43年〕が高家筆頭の家格を付与され、3000石で陣屋を構えた。「高家」は江戸幕府に
於ける儀式や典礼を司り、主に足利一門や著名な戦国大名の子孫のみが就ける役職である。
義弥の長男義冬の代で4200石となり、1668年義冬没後は嫡男義央に継がれる。下っ
て、1701年江戸城松之大廊下で赤穂藩主浅野内匠頭長矩に斬り付けられる事件が起こり
、刀を抜かなかった吉良上野介〔義央〕はお咎め無し、背中と額を斬り付けた浅野内匠頭は
切腹・改易となった。この結果を不服とする赤穂側は仇討ちを勘考。義央は江戸の屋敷を呉
服橋内から本所へ映し、1702年家督を義周に譲って隠居していたが、1703年大石内
蔵助良雄以下赤穂浪士47名が吉良邸へ討ち入り、吉良側は義央・剣豪二刀流の清水一学義
久・小林平八郎央通ら17名が討たれ、23名の負傷者を出した。この「元禄赤穂事件」で
赤穂浪士は預け先の大名屋敷で切腹、遺子は出家者以外流罪、吉良側は義周に信濃国高島へ
配流処分が下され、一様の終結を迎えた。1705年陣屋は津田正房が3000石で入り、
正明−正春−正安−1795年正良−1837年正応−嘉永年間〔1848〜1854年〕
正信−1861年桂次郎と、明治まで存続した。現在は畑地、住宅に変わり、陣屋の椿、模
擬門が在る。
【所感】県道42号線寺嶋信号を北へ進み、2つ目の辻を左へ曲がります。150m程進む
と、アパートの隣りの狭い敷地に岡山陣屋跡の門、椿が在ります。陣屋跡から北700mの
県道42号線沿いに「黄金堤」〔字岡山大字下り松〕が在ります。忠臣蔵の悪役で知られる
「吉良上野介義央」が築いたものです。「鎧ヶ渕」と呼ばれる沼地の洪水を防ぐ為、長さ1
80mの堤を築き、村を水害から救いました。義央の働きにより、田には稲穂が豊かに実る
ようになり、いつしか「黄金堤」と呼ばれるようになったそうです。現在も高さ5m程の堤
、はL字形にしっかり残り、桜の木が植えられています。城好きには「土塁」のように見え
て感動します。また、この地は「鎧ヶ渕古戦場」でもあります。1561年松平元康〔家康
〕の「東条城攻め」の際、深溝松平好景が吉良義昭軍に惨敗し、沼から武具や鎧が引き上げ
られたことから、「鎧ヶ渕」と呼ばれるようになったそうです。駐車場、トイレ、歴史看板
も在りますので、セットでどうぞ!清水一学〔1678〜1703年〕の生誕地碑は円融寺
の東方200m程の県道318号線沿いに立っています。その手前には尾張藩士で天下一の
弓術家星野勘左衛門〔1642〜1696年〕の生誕地碑も在り、生きた時代が重なる剣の
達人と弓の名手が隣り同士というのも驚きです。
岡山陣屋跡
黄金堤
黄金堤の上〔写真:左〕鎧ヶ淵古戦場の石碑・黄金堤〔写真:右〕
鎧掛松及蛇枕石之碑・黄金堤〔写真:左〕吉良義央・冨子の供養塔・真正寺〔写真:右〕
華蔵寺の吉良家墓所
清水一学生誕之地の石碑/清水一学公の墓・円融寺裏の墓地/星野勘左衛門生誕之地の石碑