三河 奥殿陣屋
Okudono Jinya
奥殿陣屋跡【愛知県岡崎市奥殿町雑谷下10】
宝珠院【愛知県豊田市足助町東井ノ上16】
旧林宮寺【愛知県岡崎市奥殿町桃ノ木】
やたでんき【愛知県岡崎市奥殿町椰ノ谷下70】
【立地】山麓
【市指定史跡】
【奥殿松平家】真次 ― 乗次 ― 乗成 = 乗真 ― 盈乗 ― 乗穏 ― 乗友 = 乗尹 = 乗羨 ―
乗利 ― 乗謨〔大給恒〕
【奥殿藩】1711〜1863年
【歴史】1711年村積山〔標高257m〕の北麓に奥殿松平家3代乗真が1万2000石で構えた陣
屋である。松平宗家4代親忠の二男乗元が大給松平家の祖となり、大給松平家5代真乗の二男真次が奥
殿松平家の祖となる。1590年家康関東移封に伴い、真次も上州那波城へ移るが、1601年美濃岩
村城へ移り、2代将軍秀忠に仕えた。1627年真次は3000石を得、1635年三河国足助400
0石を加え、三河国大給に7000石で陣屋を構えた。1646年その子乗次が遺領を受け継ぎ、16
82年丹波国何鹿郡・氷上郡など2000石加増、1683年江戸城大奥の普請役、1684年大坂定
番に任ぜられ、摂津、河内、丹波国内9郡で1万石の加増を受け、1万6000石で初代大給藩主とな
った。2代藩主乗成も大坂定番として大坂城に在城したが、1703年死去、実子も早世であった為、
養子の乗真〔本多正種の子か〕が継いだ。この時、摂津、河内、丹波3国1万2000石であったが、
三河国加茂、額田郡内4000石、信濃国佐久郡内1万2000石に移され、1711年陣屋も大給か
ら奥殿に移して、奥殿藩立藩となる。その後、盈乗−乗穏−乗友−乗尹−乗早|乗利と続き、1863
年11代乗謨〔大給亘〕の時、廃藩置県により建物は移築、取り壊しとなり、中根氏敷地内に土塀、土
蔵のみが残る。書院は、1984年竜渓院より移築復元される。現在は庭園・書院〔抹茶・売店〕・金
鳳亭〔食事処〕・資料館が造られ、奥殿松平家墓所への道の両脇に土塁状の遺構が残る。
【所感】県道39号線と県道338号線が交わる桑原町門立信号T字路から、東の県道338号線を9
00m程進むと、右手に奥殿陣屋の冠木門が在ります。現在は観光地化されて多くの観光客が来ますが
、本来の奥殿陣屋の敷地は奥殿陣屋北側の住宅、三愛工業辺りから金鳳亭辺りまでで、住所で言う字雑
谷下とほぼ同じエリアになります。金鳳亭横の道を村積山へ向って登ると、右に土塁、更に登ると、奥
殿松平家1〜10代の墓が在りますが、8代乗尹公だけは旧林宮寺の墓地に在ります。旧林宮寺墓地の
入口は、県道338号線奥殿陣屋信号T字路近くのやたでんき〔Panasonicの店〕裏手左方に見える大
きな石碑〔貞山海保先生之碑〕の場所で、左方へ登った右手墓地の最高所に在ります。
奥殿藩陣屋跡の看板〔写真:左〕観光地「奥殿陣屋」の入口〔写真:右〕
食事処 金鳳亭〔写真:左〕移築復元 書院〔写真:右〕
土塁の看板が立つ西側の土塁
長く連なる東側の土塁
奥殿松平家歴代の墓