近江 大溝陣屋
Omizo Jinya

大溝陣屋跡【滋賀県高島市勝野1688】
 分部神社【滋賀県高島市勝野1669】

【立地】平城

【歴史】1603年大溝城が破却されると、大溝に代官が置かれていたが、1619年伊勢
国上野から分部光信が近江国高島・野洲郡内2万石で入封し、大溝に陣屋を構えて大溝藩を
立藩した。戦国時代、分部氏は北伊勢の領主長野氏の被官であり、織田信長の弟信包が長野
氏の養子になると、分部光信は長野信良〔信包〕の家老となり、秀吉・家康に仕えて上野城
1万石の城主となった。1600年「関ケ原の戦い」で東軍に属し、安濃津城を護り、戦後
、上野2万石の城主になった。大溝に移ると、幕府普請奉行として駿府城・京都知恩院・比
叡山延暦寺の造営などに携わった。1643年光信が没すると、三男嘉治が遺領を継いだが
、1658年親戚の池田長重と口論になり、長重を斬殺。自らも傷を負って没した。嫡男嘉
高が跡を継いだが、子が無かったので、長信の三男信政が継いだ。越前国丸岡藩本多重益が
御家騒動で除封された時、丸岡城を守備したり、罪をつくった加藤助之進を預かった。その
後、光忠−光命−光庸と続き、光実は大溝藩切っての英主と云われ、1785年家臣の士風
刷新を目指して藩校の修身堂を創設し、善政に尽力した。1808年光実が没すると、次男
光邦が継ぐが、早世の為、2歳の光寧が相続した。1826年北方探検で知られる近藤重蔵
が息子富蔵の殺傷事件に連座して大溝藩にお預けの身となった。藩では邸内に獄舎を設け、
重蔵は四畳半の部屋で暮らした。1798年重蔵は松前蝦夷地御用となり、蝦夷地を渡るこ
と4度、その間、択捉島に“大日本重土呂府”の標柱を立て、北辺の防衛・開拓に尽力して
いる。1831年光寧は隠居し、養子の光貞で明治を迎え、1870年版籍奉還、1871
年4月光貞が没し、嫡男光謙が7歳で継ぐが、同年7月廃藩置県となり、大溝藩は廃藩、大
津県に編入された。現在は住宅となり、陣屋の長屋門、水堀跡が残る。

【所感】総門の看板には“1755年秋、大修理して今に至る”と書かれてあり、屋根が波
打っている状態や柱や梁の傷み具合が現存の雰囲気を出しています。大溝城跡に分部光信公
を祀る分部神社が在ります。







大溝陣屋の長屋門(総門)




分部光信公が御祭神の分部神社