近江 大溝城
Omizo castle

  大溝城跡【滋賀県高島市勝野】
高島市民病院【滋賀県高島市勝野1667】
  陽光の里【滋賀県高島市勝野1667−14】

【立地】水城
【別称】高島城

【歴史】1578年津田〔織田〕信澄の築城と云う。信澄は織田信長の弟織田信行〔信勝〕
の嫡男で、明智光秀の四女を正室としている。1573年織田信長は浅井氏を滅ぼし、高島
郡を浅井方の降将磯野丹波守員昌に支配させた。員昌は新庄城を居城としていたが、嫡子が
無く、信澄を養子に迎えた。大溝城の縄張りは明智光秀とされ、本丸・二の丸・三の丸が乙
女ヶ池に浮かぶ水城、西側の陸地に武家屋敷・町人街が並ぶ。本丸は信澄が築き、石垣は沖
の島方面から湖上を筏で運ばせたと伝わる。1582年「本能寺の変」の際、明智光秀の娘
婿である信澄も関係を疑われ、丹羽長秀に殺害された。信澄没後、高島郡は丹羽長秀が治め
、大溝城は長秀の代官樋田佐太郎重安が護った。1583年「賤ヶ岳の戦い」の後、丹羽長
秀が柴田勝家の北ノ庄へ移ると、1578〜1580年「三木城攻め」、1582年「山崎
の戦い」などの戦功により、加藤光泰が入る。1584年「小牧・長久手の戦い」後、光泰
は大垣4万石へ移り、替わって生駒親正が入城、1585年親正が伊勢国神戸城移ると、最
後、京極高次が入った。1603年廃城となり、城の一部は水口城に移築されたと伝わる。
現在は施設、駐車場などに変わり、天守台の石垣が残る。

【所感】草地の中に天守台の石垣が残ってますが、崩れている部分も多く、少し残念な感じ
もあります。往時、本天・二の丸〔天守台南側の高島市民病院の駐車場〕・三の丸〔陽光の
里辺り〕を囲んでいた乙女ヶ池は、現在も南北600m程の細長い池として残り、琵琶湖と
も繋がっています。





乙女ヶ池







大溝城天守台・本丸



大溝城跡碑と大溝城本丸跡の看板・本丸



二の丸・高島市民病院駐車場



大溝城三の丸跡の石碑・三の丸




大溝城の看板・近江高島駅口信号丁字路・ゆめチャレンジタウン高島ふれあい交流広場