伊予 大洲城
Ozu castle
大洲城跡・内堀菖蒲園【愛媛県大洲市大洲903】
大洲市民会館【愛媛県大洲市大洲大洲891-1】
大洲高等学校【愛媛県大洲市大洲737】
大洲小学校【愛媛県大洲市大洲711】
大洲幼稚園【愛媛県大洲市大洲715】
【立地】平山城
【別称】地蔵嶽城・比志城・亀ヶ岡城・大津城
【天守の構成・形式】複合連結式層塔型天守
【国重要文化財】高欄櫓、台所櫓、苧綿櫓、三の丸南隅櫓
【県指定史跡】
【歴史】1330年伊予国の守護に任ぜられ、喜多郡を領した宇都宮豊房が、1331年地
蔵嶽に築城したことに始まる。山の中腹に地蔵が祀ってあったことから、地蔵嶽城と称した
と云う。豊房の後、宗泰-泰輔-家綱-安綱-宣綱-清綱-豊綱と続いたが、1576年頃
、豊綱の家老大野直之が長宗我部元親と結んで地蔵嶽城を攻め、大野氏が城主となる。15
85年豊臣秀吉の意を受けて小早川隆景が攻め滅ぼし、小早川秀包が宇和郡内3万5000
石で大津城〔大洲城〕に入城するが、同年、秀吉が四国を平定すると、秀包は筑後国久留米
へ移り、代わって戸田勝隆が16万石で入封した。勝隆没後、藤堂高虎の所領となり、養嫡
子高吉が在城し、やがて高虎は宇和郡板島〔宇和島〕へ本拠を移した。1608年藤堂高虎
は伊勢国安野津へ移り、1609年淡路国洲本より脇坂安治が5万5000石余で入封し、
大洲藩を立藩。この時、大津→大洲に改められたと云われる。1614年「大坂の陣」の際
、安治は不参戦とした為、自身は隠居、家督は次男安元に継がれたが、1617年信濃国飯
田へ移った。代わって伯耆国米子より加藤貞泰が伊予国喜多・浮穴・風早・桑村4郡内6万
石で入封。1623年貞泰没後、嫡男泰興が遺領を継ぐが、弟直泰に1万石を分与して新谷
藩を立藩、大洲藩は5万石となった。1635年泰興は幕府の許可を得て“風早・桑村郡5
7村”から“松山藩領伊予・浮穴郡37村”へ替地を行い、大洲藩では新領を御替地と呼ん
だ。泰興の後、泰恒-泰統-泰温-泰衑-泰武-泰行-泰候-泰済-泰幹-泰祉と続き、泰
秋で廃藩置県を迎える。城郭の建設整備は戸田勝隆から藤堂高虎を経て、脇坂安治で現在の
姿がほぼ完成したとされる。1957年4櫓〔高欄櫓・台所櫓・苧綿櫓・三の丸南隅櫓〕が
国重要文化財に指定され、2004年天守、多聞櫓〔渡櫓〕が復元完成となる。現在は城山
公園、公共施設、住宅となり、櫓、井戸、石垣、内堀、曲輪などが残る。
【所感】肱川の西、大洲市民会館の北、内堀菖蒲園の東に大洲城は在ります。大洲市民会館
横の「下台所」から北方を見上げると、石垣で固められた本丸上に「高欄櫓」「天守」が見
えます。石垣を見ているだけでも心が躍りますが、左手の二の丸御殿跡・二の丸西曲輪・二
の丸北曲輪を経て坂道を上って行くと、本丸下段に大井戸、暗り門跡を上った本丸上段に漆
喰・下見板・千鳥破風・唐破風を身に纏った「天守」と「高欄櫓」「台所櫓」が並んで建っ
ています。有料になりますが、台所櫓から内部へ入ることが出来、天守も最上階まで階段で
登ることが出来ます。高欄櫓へ移ると、再度、現存櫓の雰囲気が感じられ、踊り場付きの階
段は2階へ着く手前で不規則段になっています。大洲市民会館の東・肱川沿いに「苧綿櫓」
、大洲高校の第二運動場〔大洲小学校・大洲幼稚園の西横〕の北に「三の丸南隅櫓」も残り
、見所もいっぱい。時間の関係で内堀菖蒲園は行けませんでしたが、撮り甲斐のある大変満
足出来る城でした。
二重二階 高欄櫓【国重要文化財】〔左〕四重四階 木造復元天守〔中央〕二重二階 台所櫓【国重要文化財】〔右〕
台所櫓1階【国重要文化財】
天守1階
天守2階
天守3階
天守4階
天守から見た肱川
木造復元天守〔左〕西多聞櫓〔中央〕高欄櫓【国重要文化財】〔右〕
木造復元天守
光烈無窮の碑・加藤貞泰顕彰碑・本丸上段
暗り門跡
本丸井戸跡・井戸丸・本丸下段
本丸下段
本丸虎口
玉櫓跡・二の丸〔北の丸〕
二の丸〔中の丸〕
奥御殿跡・二の丸〔中の丸〕
塀と下台所・二の丸
櫓下御門の石垣
二重二階 苧綿櫓【国重要文化財】
二重二階 三の丸南隅櫓【国重要文化財】