日向 佐土原城
Sadowara castle
佐土原城跡【宮崎県宮崎市佐土原町上田島】
佐土原歴史資料館【宮崎県宮崎市佐土原町上田島8202-1】
城の駅佐土原いろは館【宮崎県宮崎市佐土原町上田島1387-1】
【立地】平山城
【別称】鶴松城・田島城・田島之城
【国指定史跡】佐土原城跡
【歴史】標高72m、比高60mの本丸を基点とする4つの尾根に曲輪を配した山城である。鎌倉時代
、伊東祐時の四男祐明が田島庄〔佐土原〕へ下向して田島氏を名乗り、初めは平地に居館を構え、南北
朝動乱期に前身となる小規模な山城が築かれたとされる。築城者に田島左近太夫休助〔佐土原休助〕の
名があり、伊東菱門の家臣角隅石宗が縄張りしたとも伝わる。次第に都於郡城の伊東氏は勢力を拡大、
5代伊東祐尭の頃に田島氏を滅ぼし、佐土原を治めた。祐尭の弟祐賀が佐土原氏を名乗って城へ入った
とも云われるが、確証は無い。1480年6代伊東祐国が佐土原を知行し、1484年祐国は弟祐邑と
ともに島津氏が固守する飫肥城を落としたが、翌1485年島津氏に奪われ、再び祐邑とともに800
0の兵を率いて飫肥城を攻撃、祐国は敗れて討死した。1532年頃より伊東氏の相続争いが始まり、
1536年7月伊東祐国の子尹祐が没し、伊東祐清〔後の義祐〕が家督を継いだ。都於郡城は兵火に掛
かっていた為、佐土原城へ入るが、翌1537年12月佐土原城も失火で燃え、義祐は宮崎城へ移った
。1543年頃、佐土原へ戻るが、この時期に城の大改修が行われ、人々が集まり、1553年京都の
金閣寺を模して金柏寺も建てられたと云う。1555年義祐は都於郡城へ移り住み、佐土原城も併用さ
れた。1568年伊東氏の悲願だった飫肥城を奪取。伊東氏の本城である都於郡城に義祐の子義益、飫
肥城に義祐の子祐兵を配し、自らは佐土原に住み、日向国内に48の支城を持つ、伊東氏の最盛期を築
き上げた。しかし、翌1569年義益が急死、1572年「木崎原の戦い」で島津氏に大敗。都於郡・
佐土原の兵を多数喪い、伊東氏は退勢に向って行く。1576年祐兵は佐土原に移り、亡くなった義益
の娘と結婚し、体制を固めようとしたが、1577年紙屋から侵入した島津軍に伊東氏は総崩れ、義祐
と一族は佐土原城を捨てて豊後へ逃げ去った。日向は島津軍が占領し、佐土原城に伊集院忠棟が入る。
伊東氏は豊後大友氏を頼り、翌1578年大友軍とともに日向奪回に動くが、「耳川の戦い」で大敗、
日向は完全に島津領となった。島津氏の日向支配は、一族の島津家久を佐土原城に入れて日向守護代と
し、補佐役として老中の上井覚兼を宮崎城に置いた。島津氏はその勢いで北九州制圧に乗り出したが、
豊後で豊臣氏に敗れ、日向に戻ってからも佐土原城を包囲され、已むなく降参。島津家久は居城を出て
上洛することを了承した為、佐土原城と城領は安堵された。1587年家久が急死〔秀長の毒殺か〕、
秀吉の弟豊臣秀長が入る。1588年豊臣氏による九州の国分けが行われ、佐土原は家久の子豊久が2
万8000石余で入った。1600年「関ヶ原の戦い」の際、豊久は西軍に属して敗れ、伯父の島津義
弘とともに伊勢街道から撤退する為に敵中〔東軍〕突破を決断する。豊久は先陣と殿〔捨て奸〕を務め
て討死、義弘は無事難局を乗り越えた〔島津の退き口〕。1601年徳川家康の知行割りで佐土原は幕
領となり、家康の代官山口直友の与力庄田三大夫安信が代官として入った。島津氏は佐土原の地を確保
するために戦死した豊久の代わりとして、大隅国垂水城主島津以久〔義久の従弟〕を城番とした。16
03年大隅国垂水城主の島津以久〔島津義久の従弟〕が3万石で佐土原初代藩主となり、城の大改修を
行ったと云われる。1610年2代忠興が継ぎ、1611年山城に三重〔二重とも〕天守・櫓・塀・門
が築かれた。1617年検地が行われ、3万70石余の石高が確定した。1625年広大な山城の維持
管理が難しくなり、山城の建物を取り壊し、山下の二の丸に藩庁を移し、御殿・書院・数奇屋、代官所
・普請所・家臣の屋敷などが築かれた。1637年3代久雄-1663年4代忠高と続き、1676年
久寿が、忠高病没後に生まれた万吉丸の番代として襲封した。1690年万吉丸が5代惟久として襲封
すると、番代を務めた久寿に対して、幕命により3000石を分与され、佐土原藩領は2万7070石
となった。1723年6代忠雅-1753年7代久柄-1785年8代忠持-1816年9代忠徹と続
き、1825年藩校学習館を設立。1839年10代忠寛が継ぎ、1871年廃藩置県を迎える。20
04年国史跡に指定され、現在は曲輪、土塁、堀切、天守台跡などが残る。
【所感】国道219号線沿い「城の駅佐土原いろは館」の前に佐土原城跡が在ります。私は佐土原城跡
の資料を持っていなかったので、手元に縄張図も無いまま、佐土原歴史資料館前の登城口らしき道を進
みました。左手の柵に囲まれた井戸跡?を過ぎ、丸太段が見えた時、この道〔中の道〕が正しいと分か
りました。丸太段を登り切った尾根の手前が虎口、右手に岩盤が在る場所です。尾根に乗った左手に竹
薮の曲輪、右手へ進むと、東屋が建つ曲輪が在ります。更に〔中の道〕進むと,Y字路になっており、
右が「本丸〔北部本丸〕」へ、左が「南の丸」「松尾丸」「本丸」への道になります。左へ進み、虎口
を抜けると、「本丸」と「南の丸」「松尾丸」へ分かれる曲輪が在ります。曲輪をそのまま通り過ぎて
右へ登って行くと「南の丸」です。「南の丸」の虎口は枡形になっており、2代藩主忠興の御殿が建っ
ていた場所と言います。「南の丸」から元の道へ戻って少し降りると「堀切」、その先に大手道と「松
尾丸」の分岐点が在ります。「松尾丸」までは少し歩きますが、「南の丸」の南側を通って、クランク
状の道・細長い尾根を経て、「松尾丸」に着きます。他の曲輪とは少し離れた南端に位置しています。
最高所の「本丸」は3つに分かれており、南の広い平坦地、天守台が残る「北部本丸」、竹薮で入れな
い「本丸北側曲輪」から成っています。天守台は発掘によって出土した石垣です。出土文化財管理セン
ター〔普請所跡〕へ戻ると、周辺の田地に役所跡の標柱が立ち、2代藩主忠興が「南の丸」から山下へ
居館を移したエリアになります。城跡周辺の島津氏墓所も行きたい気持ちがありましたが、宮崎遠征最
終日、都於郡城跡・穆佐城跡も控えていたので、諦めました。帰りの城の駅、縄張図を貰うことが出来
、後から登城道や曲輪を確認しました。
佐土原出土文化財管理センターから登った尾根の虎口・北西尾根・中の道
北西尾根先端の曲輪・竹薮
北西尾根中央の東屋が在る曲輪
曲輪への分岐点
虎口
松尾丸・南の丸・本丸の分岐点となる曲輪
南の丸への道
南の丸
松尾丸手前の堀切・大手道
松尾丸への道
松尾丸
本丸枡形虎口
本丸
二の丸・鶴松館〔写真:左〕三の丸・駐車場〔写真:右〕
二の丸-三の丸間の内堀跡〔写真:左〕会所跡・三の丸〔写真:右〕
馬繋場跡〔写真:左〕代官所跡〔写真:右〕
反米役所跡〔写真:左〕普請所跡〔写真:右〕
厩役所跡〔写真:左〕井戸跡か〔写真:右〕