肥前 佐賀城
Saga castle
佐賀城跡【佐賀県佐賀市城内1丁目・2丁目】
佐賀県庁・佐賀銀行県庁支店【佐賀県佐賀市城内1丁目1−59】
県立佐賀西高等学校【佐賀県佐賀市城内1丁目4−25】
県立図書館【佐賀県佐賀市城内2丁目1−41】
県立美術館【佐賀県佐賀市城内1丁目15−23】
市村記念体育館【佐賀県佐賀市城内2丁目1−35】
サガテレビ本社【佐賀県佐賀市城内1丁目6−10】
NHK佐賀放送局【佐賀県佐賀市城内2丁目15−8】
佐賀大学文化教育学部附属中学校【佐賀県佐賀市城内1丁目14−4】
佐賀大学文化教育学部附属小学校【佐賀県佐賀市城内2丁目17−1】
【立地】平城
【別称】佐嘉城・榮城・亀甲城
【国重要文化財】佐賀城鯱の門及び続櫓
【県重要文化財】旧佐賀城本丸御座間・堪忍所
【県指定史跡】佐賀城跡
【歴史】五州〔肥前・肥後・筑前・筑後・豊前〕二島〔壱岐・対馬〕の領主竜造寺隆信は、1584年
3月肥前国島原・沖田畷で島津義久・有馬晴信軍に敗れ、自刃。1587年豊臣秀吉の九州平定後、隆
信の嫡男政家が肥前国35万7000石を安堵されたが、1590年病気を理由に重臣鍋島直茂に譲っ
て隠退した。1600年「関ヶ原の戦い」の際、西軍に与した鍋島直茂・勝茂父子は、筑後国の柳川城
主立花宗茂討伐の功により、肥前国10郡799村35万7000石を安堵された。1607年9月6
日竜造寺隆信の孫高房は所領を奪われた憤怒から22歳で自刃。高房の父政家も10月2日に没した。
1602年竜造寺氏の村中城をベースに佐賀城の築城を始める。本丸台所が完成し、1603年本丸・
1607年西の丸隅櫓・1608年周囲の堀・1609年天守閣の石垣と、毎年少しずつ増築を重ね、
1611年完成、1614年外郭を増普請した。1610年勝茂に継がれ、2代将軍徳川秀忠より35
万石7000石の朱印状が交付され、幕府公認の初代藩主となる。弟忠茂に鹿島藩2万石を分与。16
14年嫡男元茂に小城藩7万3000石・1635年三男直澄に蓮池藩5万2000石を分与し、一本
藩三支藩の体制とした。1637年10月「島原の乱」の際、勝茂は乱の鎮圧に活躍し、1641年か
ら福岡藩と一年交替で長崎御番を命ぜられた。その後、1657年2代光茂−1695年3代綱茂と続
き、1707年4代吉茂の時、1726年天守・本丸・二の丸・三の丸が焼失、1728年二の丸が復
活した。1730年5代宗茂−1738年6代宗教−1760年7代重茂と続く。1770年8代治茂
は有明海や伊万里湾の一部を干拓、有田焼の輸出を行い、1805年9代斉直を経て、1830年10
代直正は陶器・石炭・白蝋・小麦・茶などを輸出、鉄砲・大砲・蒸気船・蒸気車などの製造・技術の向
上に努めた。1835年二の丸が焼失、本丸再建に着手し、1838年本丸御殿が再建された。186
1年11代直大に継がれ、1871年廃藩置県を迎える。1957年鯱の門と続櫓が国重要文化財、2
001年本丸御座間・堪忍所が県重要文化財、佐賀城跡が県史跡に指定されている。現在は三方を水堀
に囲まれた三の丸に佐賀県庁・公共施設・サガテレビ本社・住宅など、二の丸にNHK佐賀放送局・小
学校、本丸に佐賀本丸歴史館が建てられている。遺構として天守台、石垣、水堀、門、本丸御座間と堪
忍所などが有り、櫓台、土塁、本丸御殿の一部が復元されている。
【所感】一辺700mの水堀に囲まれて本丸・二の丸・三の丸が在ります。時間の都合で佐賀城の旧本
丸エリアのみを訪ねました。重文の鯱の門を潜ると、右手に復元された本丸御殿の建物・佐賀本丸歴史
館が在ります。この時は鍋島直正生誕200年記念行事として「大閑叟展」が行われ、内部は直正の業
績が展示・紹介されていました。スタッフの人数も多く、力の入れ具合が伝わって来ました。もう少し
時間があれば、水掘を一周して遺構を撮りたかったのですが、次の吉野ヶ里が待っていたので、主要エ
リアのみとなってしまいました。
鯱の門と続櫓【国重要文化財】
本丸御座間・堪忍所【県重要文化財】
天守台
天守台虎口
天守台上の様子〔写真:左〕復元 本丸御殿〔写真:右〕
本丸南西隅櫓台〔写真:左〕本丸南側の水堀・幅70m〔写真:右〕
本丸東端の石製桶管と赤石積水路〔写真:左〕本丸南端の土塁〔写真:右〕