出羽 寒河江城
Sagae castle

寒河江城跡・寒河江小学校【山形県寒河江市丸内1-3-8】

【立地】平城

【歴史】嘉禄年間(1225~1227年)、大江親広が当地に砦を築いて寒河江氏を称し
たことに始まり、8代時氏の時、城が完成する。南北朝時代(1336~1392年)、寒
河江氏は南朝方に属したが、1368年「漆川の戦い」に敗れ、溝延茂信以下一族60名程
が自害。時氏だけが最上氏に降り、子孫が存続した。1560年最上義光が寒河江城を攻め
た時、城主兼広は伊達輝宗に援軍を乞い、輝宗は寒河江・中野・天童・高橋・蔵増・左沢・
白岩などの諸城を援助したが、1574年伊達輝宗と最上義光は谷地城主白鳥十郎長久の議
を受け入れ、和睦し、輝宗は米沢に戻った。1584年最上義光は山形城で谷地城主白鳥長
久を誘殺すると、寒河江の高基も攻め、松田彦次郎の館で自害、寒河江大江氏は滅亡した。
その後、最上氏は大江氏の庶族寒河江肥前守光俊を入れ、1600年直江兼継に落とされる
が、「関ヶ原の戦い」後、再度、最上氏の領地となった。1622年最上氏が改易になると
、山形藩主鳥居忠政・忠恒の預かりとなり、代官として豊田壱岐・石黒茂助が務めた。16
36年忠恒が没すると、寒河江城は廃城、天領となり、代官として小林十郎左衛門・松平清
左衛門などが任じられた。尚、鳥居氏の代に本丸を残して全て破却された。1687年寒河
江城二の丸跡地に寒河江陣屋が置かれ、1753年類焼、1769年再建される。1863
年幕府は大規模な百姓一揆の襲来に備える為、寒河江・柴橋両陣屋統合構想を示したが、代
官所廃止を危惧する村民は寒河江城本丸跡に移転することを嘆願したが、長岡山に統合陣屋
建設を決め、1867年長岡陣屋の建設を始めたが、1868~1869年「戊辰戦争」で
焼失した。遺構は無いが、小学校を中心に方形区画が放射状に広がっていることが、地図で
確認出来る。

【所感】県道24号線、県道23号線が交差する寒河江市本町信号交差点を東進し、2つ目
の信号を左折すると、右手の寒河江小学校、寒河江城址の石碑が立っています。他にも要所
に石碑が立っているようですが、旅行の為、周ることが出来ませんでした。




寒河江城址の石碑・寒河江城墟碑・寒河江小学校