伊予 西条陣屋
Saijo Jinya
西条陣屋跡【愛媛県西条市明屋敷】
西条高等学校【愛媛県西条市明屋敷234】
西条郷土博物館【愛媛県西条市明屋敷237-1】
五百亀記念館【愛媛県西条市明屋敷238-2】
西条栄光幼稚園【愛媛県西条市明屋敷236-17】
大通寺【愛媛県西条市神拝甲312】
満福寺【愛媛県西条市朔日市573】
【立地】平城
【別称】西条城・西条館・桑村館・西条藩陣屋
【市指定史跡】
【歴史】1636年伊勢国神戸城主一柳直盛は1万8000石の加増を受け、伊予国新居・
宇摩・周布、播磨国加東4郡内6万8000石を領有して西条藩を立藩したことに始まる。
しかし、直盛は西条へ赴任途中に大坂で没した為、幕命により遺領は嫡男直重に伊予国西条
3万石、次男直家に播磨国小野2万8000石、三男直頼に伊予国小松1万石を分与した。
直重は陣屋を築き、町造りに着手したが、1645年に没し、嫡男直興が遺領を継ぎ、次男
直照に5000石を分与して2万5000石を領有した。しかし、直興は参勤交代の遅参、
藩治の失政などの不行跡から1665年除封となり、加賀国金沢藩主前田綱紀の預かりとな
った。その後、直轄領として代官小島孫右衛門が居住したが、1670年和歌山藩主徳川頼
宣の次男松平頼純が新居郡内43村、宇摩郡内15村、周布郡内3村で3万石を領して入封
、西条藩を再立藩した。松平氏は参勤交代を行わない定府大名〔江戸に定住〕で領国は徴税
の為の土地と考えられていた。1712年頼純が没し、五男頼致が家督を継いだが、171
6年和歌山5代藩主頼方〔吉宗〕が徳川将軍家8代に就任すると、頼致が和歌山6代藩主に
就き、西条は頼純の六男頼渡が10歳で家督を継いだ。その後、1738年頼邑―1753
年頼淳-1775年頼謙-1795年頼看-1797年頼啓-1832年頼学-1862年
頼英と続き、1871年廃藩置県を迎える。現在は学校、博物館などに変わり、門、水堀、
土塁、石垣が残る。
【所感】高校、幼稚園、博物館などが収まる250m四方の陣屋跡は、今でもそれらを囲む
水堀が残り、私はこれを撮り歩いているだけで楽しい。大手門である高校正門の両脇に土塁
が残り、西条郷土博物館前に北御門、近くの満福寺に西御門、大通寺に御広敷門が移築され
ています。時間が無くて、移築門が撮れなかったことが悔やまれます。
現存 大手門・西条高等学校正門
大手門北側の土塁・西条高等学校正門脇
大手門南側の土塁・西条高等学校正門脇
現存 北御門・西条郷土博物館
北御門橋
西御門橋
陣屋東側の水堀
陣屋南側の水堀
陣屋西側の水堀
陣屋北側の水堀