豊後 佐伯城
Saiki castle
佐伯城跡【大分県佐伯市大手町】
佐伯文化会館【大分県佐伯市大手町1丁目1-1】
佐伯小学校【大分県佐伯市城下西町2-22】
佐伯市歴史資料館【大分県佐伯市大手町1丁目2-25】
佐伯市勤労者総合福祉センター三余館【大分県佐伯市大手町1丁目2-12】
【立地】山城
【別称】鶴谷城・鶴ヶ城・鶴屋城・鶴城
【歴史】1600年「関ヶ原の戦い」の戦功により豊後国隈府領主毛利高政が2万石で入り、標高14
4m、比高135mの八幡山〔城山〕に築いた山城である。築城に際し、第1候補を女島山、第2候補
を八幡山としていたが、幕府の許可は八幡山であった。築城は1602~1606年とされ、縄張りは
織田信長の遺臣市田五郎左衛門尉祐定が担当、大変な難工事で多くの犠牲者を出した。1628年高成
、1632年高尚〔高直〕が継ぎ、1637年山麓の三の丸に御殿・櫓門を設けて居を移し、山城に御
本城御番人を置いて守備させた。1664年高重-1682年高久を経て、高慶の時、1704年江戸
城半蔵門の石垣普請助役を勤め、1707年津波の被害を受けて中村外に大土手、城下の外周に長堤を
築いた。1709年幕府の許可を得て荒廃していた佐伯城の修築に取り掛かり、天守を除いて創建当時
の姿に再現、大手門・搦手門を整備し、1729年に完成した。1736年大火を受けて町割を再編し
て士民の居住区を設定。1742年高丘、1760年高標が継ぎ、1777年藩校四教堂を創建、17
81年城中に佐伯文庫をつくった。1801年高誠-1812年高翰-1832年高泰-1862年高
謙と続き、1869年版籍奉還、1871年廃藩置県を迎える。現在は三の丸跡〔佐伯文化会館〕に櫓
門が残り、山頂に曲輪、石垣、貯水池〔井戸跡〕が残る。
【所感】この城跡は総石垣造りで見応えがあります。特に本丸周辺が面白く、橋〔堀切〕・坂虎口が在
る二の丸方面、喰い違い門の石垣が残る北出丸方面など、様々方向・角度・高さから撮影出来る場所に
なっています。私は西出丸・二の丸・北の丸も含めて撮影に2時間掛かりました。城跡からは番匠川・
佐伯湾・遠くに四国〔宇和島〕が見える展望台のような場所、地元の方も日課のように登城を繰り返し
、私もお話しながら休憩しました。石垣好きには堪らない城跡です。
現存 三の丸櫓門【県指定有形文化財】
登城道〔写真:左〕登城道途中の捨曲輪・九合目広場〔写真:右〕
西出丸の南エリア
西出丸南西端の二重櫓跡
西出丸全景
西出丸-二の丸間の虎口
二の丸全景
二の丸東端の石垣
本丸-二の丸間の堀切
本丸西面の石垣
本丸曲輪北面の石垣
本丸曲輪南面の石垣
本丸外曲輪の東エリア
天守台と本丸曲輪
本丸外曲輪と番匠川
本丸曲輪の石垣
本丸外曲輪の坂虎口
本丸外曲輪-北出丸間の喰い違い門跡
北出丸の水の手門跡
北出丸の南エリア
北出丸の北エリア
北出丸北端の二重櫓跡