対馬 桟原城
Sajikihara castle
桟原城跡・陸上自衛隊対馬駐屯地【長崎県南対馬市厳原町桟原38】
ポプラ対馬桟原店【長崎県南対馬市厳原町桟原49−1】
対馬藩校日新館正門【長崎県南対馬市厳原町桟原52】
厳原幼稚園・桟原城高麗門【長崎県南対馬市厳原町日吉238】
氏江家屋敷長屋門・長崎県対馬振興局【長崎県南対馬市厳原町宮谷224】
【立地】丘城
【別称】桟原館・厳原城・府中城
【歴史】府中藩3代藩主〔宗氏21代〕宗義真が築いた丘城〔1660年着工〜1678年
竣工〕である。それまで金石城を本城としていたが、朝鮮通信使が来日した際、港から金石
城まで距離が近過ぎて行列〔600人弱〕が整わず、威容を示せなかった為、町の最奥であ
る桟原に城を築き、1659年大火で焼失した城下町も合わせて一新された。義真の後、義
倫−義真−義方−義誠−方熈−義如−義蕃−義暢と続くが、この間に朝鮮との貿易が衰退、
藩財政が窮乏する状況となり、世徳年間(1711〜1715年)以降、幕府から補助を受
けることが恒例化した。義功〔猪三郎〕−義功〔富寿〕と続き、幕府からの借財は15万2
000両に膨れ上がった。根本的な打開策として、1791年幕府は朝鮮通信使の儀式を江
戸から対馬に変更するよう、朝鮮と交渉することを命じ、1798年「戌午易地行聘条約」
が締結された。幕府はその応接費として8万両を下賜、次の義質の襲封に際し、肥前国松浦
郡、筑前国怡土郡、下野国都賀・安蘇2郡で2万石が加増された。義章を経て、1832年
義和が継ぎ、1861年ロシア軍艦が対馬淺茅湾に来航、島民と衝突する事件が起こる。義
達が藩主になると、叔父で家老の勝井五八郎ら佐幕派は尊王攘夷派と激しく対立、1864
年10月19日クーデターを決行して尊王攘夷派の家老大浦教之助に牢舎入りを命じ、大浦
は4日後に絶命、これに続き尊攘派は悉く捕えられ、切腹・獄門などに処された。これに憤
激した京都の家老平田大江は尽義隊を結成し、義達に尊攘か佐幕か選択を迫ったので、18
65年5月勝井を誅殺した。その上で義達は領内の秩序回復を図る為に平田を斬殺し、一連
の紛争〔勝井事件〕は決着した。府中藩は幕末の緊迫した状況の中で藩論を統一出来ないま
ま、1867年12月王政復古を迎えたが、この時府中藩→厳原藩に改称した。1869年
義達は版籍奉還して知藩事に任ぜられ、名を重正と改名、1871年廃藩置県を迎えた。現
在は駐屯地、住宅となり、石垣が残る。
【所感】陸上自衛隊対馬駐屯地は西面・南面に巨石と平らな石が隙間なく積まれた石垣〔鏡
積み〕がよく残っています。街中にも武家屋敷跡や火切石と呼ばれる防火壁にも同じような
鏡積みを見ることが出来ます。自衛隊ということで門番の方に一声掛け、建物は入れて欲し
くないとのことでしたので、石垣だけをアップで撮らせて頂きました。本土ではあまり見る
ことがない対馬ならではの石垣です。
移築 桟原城高麗門・厳原幼稚園
桟原館跡の看板・国道382号線沿い
宗家桟原館の石碑・陸上自衛隊対馬駐屯地
桟原城跡西面の石垣
対馬藩家老氏江家屋敷の長屋門
氏江家屋敷の石塀
対馬藩校 日新館正門【県指定有形文化財】