陸奥 三戸城
Sannohe castle
三戸城跡・三戸温故館【青森県三戸郡三戸町梅内字城ノ下34】
聖寿館跡【青森県三戸郡南部町小向字正寿寺88】
龍川寺【青森県三戸郡三戸町川守田字中屋敷2】
法泉寺【青森県三戸郡三戸町川守田字横道6】
【立地】平山城
【別称】留ヶ崎城・三戸高城・糠部城
【町指定史跡】【国指定史跡】三戸城跡
【歴史】1539年頃、南部晴政が城山〔標高130m、比高90m〕に築いた平山城であ
る。三戸南部宗家は、1189年初代光行が平泉の藤原泰衡討伐の戦功で源義朝より糠部を
賜り、1191年一族と家臣を率いて甲斐から入国。三戸を拠点に周辺の城に息子らを住ま
わせ、領内経営を行ってきた。下って、南部氏24代晴政の時、1539年3月家臣赤沼備
中の放火により宗家の居館聖寿館〔本三戸城〕は塁代相伝の証文書記とともに焼失した。こ
の後、晴政は熊原川と馬淵川を天然の堀とする独立した山に新城三戸城を築いた。1590
年26代南部信直は豊臣秀吉より領土安堵の朱印状を得て、三戸城及び城下町を完成された
。この時、戦国時代から支配していた津軽4郡を失い、豊臣秀吉から南方の新領地を加えた
南部7郡(糠部〔北・三戸・二戸・九戸〕と岩手・志和・稗貫・和賀・閉伊・鹿角)を与え
られ、三戸は領地の北に位置することになった。1591年「九戸政実の乱」の後、浅野長
政らの勧めもあって岩手郡不来方に新城を築くことなり、1597年信直の世子利直の指揮
で始められ、「盛岡城」と命名された。1599年信直の死去によって一時中断。その後、
洪水や石垣が破壊されるなどで工事が進まず、三戸城・九戸城・郡山城を転々としたが、1
633年28代重直の時に全てが完成した。九戸城と郡山城は破却されたが、三戸城は残さ
れた。元和年間(1615〜1624年)から貞享年間(1684〜1688年)まで城代
が置かれたが、その後は西麓の三戸代官支配となった。1967年二ノ丸に温故館が築かれ
、1989年綱御門を復元、2022年国指定史跡となる。現在は城山公園となり、曲輪、
土塁、石垣、移築門などが残る。
【所感】主要な門〔綱門・鳩門・欅門・大門・搦手門・鍛冶屋門〕を枡形で造り、家臣の屋
敷を数多く配置しているのを実際に見ると、堅固な造りの城であることがよく分かります。
公園化で姿を変えたエリアもありますが、それでも撮り甲斐のある城跡です。
三戸城址碑
三戸城本丸跡碑・本丸上段
三層櫓跡碑・本丸上段
御姫様御殿跡碑・本丸上段
本丸端の土塁か・本丸上段
本丸下段
本丸搦手門辺り
上段御馬屋敷跡
鶴池
亀池
奥瀬与七郎邸跡
望岳亭
鍛冶屋御門跡
大門跡
糠部神社・二ノ丸
南部彦八郎利康屋敷跡・二ノ丸
南部彦九郎政直屋敷跡・二ノ丸
糠部神社鳥居・二ノ丸
欅門跡・大手三ノ門
石亀七左衛門邸跡
東彦左衛門屋敷跡
北信愛屋敷跡
目時筑前屋敷跡
桜庭安房屋敷跡
鳩門跡
武者溜・大手内曲輪
復元 綱門・大手門
大手東面の石垣
大手南面の石垣
物見櫓跡
移築 綱門・龍川寺山門
移築 搦手門・法泉寺山門