丹波 篠山城
Sasayama castle

       篠山城跡【兵庫県丹波篠山市北新町2−3】
篠山小学校・篠山幼稚園【兵庫県丹波篠山市北新町5−5】
    田園交響ホール【兵庫県丹波篠山市北新町41】

【立地】平山城
【別称】桐ヶ城

【国指定史跡】篠山城跡

【歴史】1609年徳川家康の命で築かれた平山城である。明智光秀が丹波攻略に手古摺っ
た波多野秀治の八上城は、晩年、豊臣政権の五奉行・前田玄以が入城。1602年玄以の子
茂勝が5万石を領有したが、1608年狂疾により隠岐へ配流され、除封となった。160
3年家康は江戸幕府を開府するが、大坂には豊臣一党が残存しており、大坂城攻略の包囲態
勢を整える為、彦根・津・伊賀上野・膳所・伏見・姫路などの諸城を修築強化した。その拠
点の一つとして、1608年家康の実子松平康重を常陸国笠間城から八上城へ移し、新城の
候補地を王地山・笹山・飛の山の3つ挙げ、「東に王地山が在るのは武運長久のしるしであ
る」と家康の最終決定で笹山となった。普請奉行は家康の娘婿で姫路城主池田輝政が就き、
縄張りは築城名人の津城主藤堂高虎、助役として広島城主福島正則・高知城主山内康豊〔一
豊の弟〕をはじめとする山陰・山陽・紀州・四国の15ヶ国、20諸侯・計400万石に相
当する大名で行われた。実際の縄張は高虎の家臣渡辺勘兵衛了が当たり、着工は1609年
3月、12月に康重が初代城主として入城した。その後、1年余り、普請や作事が続き、城
下町完成に40年掛かった。1619年松平康重は和泉国岸和田に転封、上野国高崎から藤
井松平信吉が5万石で入封。翌1620年信吉が病没の為、子の忠国は襲封した。忠国は城
下町の整備、丹波福知山城の城番・城代を務め、将軍家3代家光の上洛に備えた二条城修築
に助役している。1647年忠国は播磨国明石7万石へ転封となり、摂津国高槻から形原松
平康信が5万石で入封した。1669年松平典信〔康信の嫡男〕−1672年松平信利〔康
信の次男〕−1676年松平信庸〔康信の三男〕−1717年松平信岑〔信庸の子〕と続き
、1748年丹波国亀山と入れ替わって、青山忠朝が5万石で入封した。1760年分家の
忠高が襲封し、1766年藩校振徳堂が開設された。その後、1781年青山忠講−178
5年青山忠裕−1835年青山忠良−1862年青山忠敏と続き、1871年廃藩置県を迎
える。1873年城郭の建物が取り壊され、1875年大書院が篠山小学校として使われた
が、1944年失火により焼失した。1956年国指定史跡となり、2000年大書院復元
、2006年日本100名城に選定される。現在は曲輪、石垣、水堀、土塁、井戸跡が残り
、城下町も含めて観光客が多く訪れている。

【所感】今回、初めて丹波篠山城跡を訪ね、自身の想像を凌駕する石垣の高さ、外堀の長さ
と幅、馬出の大きさに驚きました。大手馬出が埋められていたり、三の丸に篠山幼稚園・小
学校が在ったりして撮影出来ない場所もありますが、それでも全体を歩いて撮影すると、2
時間掛かる規模です。私が「いいな〜」と思った撮影ポイントは、@石垣がよく見える本丸
・二の丸の南面、A南の三の丸と土塁、B南馬出〔角馬出〕の土塁、C二の丸の枡形虎口、
D埋門跡の石段〔登りも二の丸内も〕、E屋根が付いた3つの井戸跡〔大体、むき出しにな
っていることが多い〕。雲が無かったら最高でしたが、桜まつりの時期に人物の写り込みを
〔待って待って〕最小限に押さえることが出来た点は良かったと思います。






表門東側の石垣



二の丸北の表門跡



二の丸北の中門跡



二の丸北の外枡形虎口



二の丸北の鉄門跡



史料館入口の井戸跡・二の丸



























復元 大書院と史料館・二の丸





二の丸井戸跡







二の丸南の埋門跡



埋門跡へ登る石段



本丸北西隅櫓台



本丸虎口



子爵青山忠誠公追慕碑・本丸



本丸井戸跡



青山神社・本丸



贈正四位隆徳青山君碑・本丸





天守台



天守台と本丸石垣



二の丸北西の内堀



二の丸西側の内堀





二の丸石垣と内堀



本丸と二の丸を囲む三の丸



三の丸土塁



天守台から見た三の丸



東馬出・東馬出公園



東馬出を囲む水堀



三の丸南門跡





南馬出の土塁



南馬出を囲む水堀



三の丸東側の外堀