尾張 千賀屋敷
Senga residence
千賀屋敷跡【愛知県知多郡南知多町師崎字的場】
ファミリーマート師崎的場店【愛知県知多郡南知多町師崎字的場76−1】
【立地】平地
【別称】千賀城・お屋敷
【歴史】1602年に築かれた千賀重親の屋敷とされ、同年に取り壊された幡豆崎城の古木
を流用したと云う。千賀氏は伊予国河野氏の支流であり、南北朝時代(1336〜1392
年)以降、紀伊南岸沿いを東進し、志摩国千賀村〔鳥羽市千賀町〕に土着した水軍である。
越智氏を名乗っていたが、地名から千賀氏と改め、伊勢国司の北畠氏に従属していた。千賀
氏が知多へ来住した時期は定かではないが、永正年間(1504〜1520年)頃と思われ
る。1562年千賀重親が家康より三河湾の固め、及び、御船奉行を命ぜられて幡豆崎城へ
入る。1590年「小田原征伐」の後、家康の関東移封に伴い、重親も相州三崎〔神奈川県
三浦市三崎町〕へ移住、1591年1000石を得る。1600年「関ヶ原の戦い」の際、
九鬼の軍船を知多より追い払うなどの働きにより、師崎・篠島・日間賀島・須佐村・片名村
・乙方村内で1500石を得て、師崎に住んだ。1602年幡豆崎城を破却し、その古材を
用いて字的場に千賀屋敷を築いて移った。1605年知多郡は松平忠吉領になり、信親は忠
吉に仕えて船奉行として清須へ勤め、重親は駿府へ勤めた。1614年「大坂冬の陣」で大
功をたて、3代貞信は尾張藩の船奉行として、納屋橋近くの堀川東岸〔洲崎神社の北〕に屋
敷を構え、信直−信賢−著信−方信−武信−補信−信立と明治まで住んだ。現在は商店、宅
地に変わり、住宅横に千賀家之碑が立つ。
【所感】国道247号線の最南端に位置するファミリーマート師崎的場店の東側にファミリ
ーマートの駐車場とすず屋海遊亭の月極駐車場が在ります。この広い駐車場と北側の民家間
にコンクリート塀に囲まれた千賀家之碑が在ります。以前はアパートと民家間の奥に在って
地元の人に聞かないと分かりませんでしたが、駐車場になって見つけ易くなりました。
千賀家之碑