駿河 千福城
Senpuku castle

千福城跡【静岡県裾野市千福】
 普明寺【静岡県裾野市千福387】


【立地】平山城
【別称】平山城

【市指定史跡】

【歴史】東の佐野川、南から西の久保川〔渓流〕に囲まれた標高200m、比高40mの丘
陵南端に築かれた平山城である。『駿河記』によると、葛山備中守勝吉・葛山播磨守長喜が
居住し、1560年今川義元に従って尾張に出陣し、討死したと云う。1569年武田信玄
の駿河侵攻に伴い、北条氏が占拠した葛山領での抗争は信玄の深沢城攻略が一つの山場であ
った。1571年正月深沢城主北条綱成は武田の矢文に応じる形で開城するが、この時、北
条氏政が本陣とした後詰の城が千福城である。氏政は深沢城が攻略された2月下旬に小田原
城へ帰陣したが、この千福城を北駿から南下する武田軍に備える陣城として在番を務めた清
水新七郎〔下田城主清水康英の子〕に改修を命じている。その後、武田×北条両氏の抗争は
甲相一和という同盟を結び、北関東は北条、駿東郡が武田氏が割譲することになり、千福城
は破却となった。旧葛山領は信玄によって解体・再編成され、信玄の六男信貞が葛山姓を継
ぎ、葛山氏一族の御宿監物友綱が後見人となって治めた。友綱の子御宿勘兵衛政友は武田氏
の被官となり、1582年武田家滅亡後、越前松平忠直、豊臣秀頼に仕え、1615年『大
坂夏の陣』で討死したと云う。普明寺が居館跡とされ、背後の山が千福城跡である。現在は
山林、蜜柑畑、茶畑となり、曲輪、堀切、土塁、横堀、竪堀が残る。

【所感】駐車場は千福(平山)城址看板裏のスロープを下った場所に有り、登城口は本堂左
手から本堂沿いに歩き、墓地横を上がった場所にあります。千福城跡の縄張図を見ると、横
堀+竪堀を境に北エリア1/3と南エリア2/3では造りに違いがあります。北エリアは西
斜面に竪堀、北から東にかけて横堀を穿って丘陵伝いの侵入を阻止する目的で築かれたと思
われます。〔東名高速道路建設で一部消失しています〕南エリアは久保川が全体を囲み、櫓
台を頂点に大小20近い曲輪が段々に配され、兵の駐屯に適したエリアと感じます。低い山
で歩きやすく整備されているので、ほぼ全体の遺構を撮ることが出来ました。





千福(平山)城址の看板と縄張図・普明寺入口







太平山 普明寺・居館跡



千福城跡入口・墓地横



登城途中の墓地へ向かって下る竪堀









横堀から墓地へ向かって下る竪堀



三連続竪堀がある曲輪



三連続竪堀





北曲輪



北曲輪の北端



北曲輪北端から見た富士山



クランクしている横堀・北曲輪東側



北曲輪北側の二重横堀の外堀



北曲輪の標柱



富士見櫓の標柱





本曲輪北の土橋と横堀



本曲輪西の曲輪



外濠の久保川





千福城跡東端の馬場



曲輪への坂・本曲輪南西側の曲輪



虎口・本曲輪南西側の曲輪



本曲輪南西側の曲輪



水神碑が立つ小さな曲輪・本曲輪南西側の曲輪の南







本曲輪〔中城〕



本曲輪西側の横堀



本曲輪東側の曲輪





本曲輪の西側〜北側を囲む曲輪〔大土塁〕



本曲輪北側の曲輪



本曲輪南側の2段曲輪



2段曲輪西側の横堀



千福城跡南端の曲輪・2段曲輪の南側・蜜柑畑





櫓台〔本城〕



櫓台〔本城〕東側の腰曲輪





二の曲輪と土塁・櫓台〔本城〕の南側