淡路 志知城

Shichi castle

              志知城跡【兵庫県南あわじ市志知】
         マルナカ南あわじ店【兵庫県南あわじ市志知坂本143】
全農兵庫県本部淡路ベジタブルセンター【兵庫県南あわじ市志知松本335】

【立地】平城
【別称】志知松本城

【歴史】創築は鎌倉時代〔12世紀末〜1333年〕初期、菅和泉守道忠とされる。道忠は
三原郡野口村にあって近郷12ヶ村を領有したが、交通の不便を感じ、志知に新城を築いた
。道忠の後、真豊−真延−延真と続き、鎌倉幕府に仕えた。南北朝の争乱期になると、菅実
正は足利尊氏に従軍し、細川師氏が淡路へ侵攻の際、菅氏〔野口氏〕も細川氏に属した。そ
の後、忠重−実之−光忠−忠行−行則と続き、代々足利幕府に従って京に出仕したと伝わる
。室町時代〔1336〜1573年〕、菅氏は淡路守細川氏に属し、志摩守実邦の時、菅姓
→野口志摩介を名乗る。室町時代末期、阿波国・淡路国の守護である両細川氏の勢力が衰え
、家臣の三好氏が台頭してきたが、淡路でも安宅氏を筆頭とする淡路十衆と呼ばれる土豪ら
が三好党に属するようになった。野口肥前守則守も三好氏に与して阿波へ渡り、細川氏の連
合軍と対戦した。則守の子弘宗は、野口姓→菅若狭守弘宗と姓を改める。また、安宅冬康を
筆頭に畿内へ進出しようとした淡路の諸家の中に塩田孫九郎・野口信濃守・三木善兵衛・菅
若狭守ら菅氏系統の名がみられる。菅氏は弘宗の子新助の代で野口姓に返り、新助は野口孫
五郎長宗を名乗り、1576年志知城〔野口氏館〕の東方に伊勢神社を再興している。15
81年長宗我部軍が阿波へ侵攻した際、長宗は郡家の田村康広と三好〔十河〕存保に味方し
て戦う。1581年11月羽柴秀吉による「淡路攻め」では直ぐに岩屋・由良城を落して志
知城も開城、長宗を阿波へ移し、黒田孝高を志知城に置いて長宗我部郡軍に備えた。三好存
保没後、長宗は四国を離れ、東上して摂津の梨井に移住したと伝わる。1586年秀吉は洲
本城に脇坂安治、志知城に加藤嘉明を配して治めるが、安宅・菅氏らの淡路水軍に代わって
新領主の水軍編成を急務とした。1586年「九州攻め」、1590年「小田原征伐」では
脇坂安治・加藤嘉明らは水軍で参戦、「文禄・慶長の役」でも海戦で活躍した。1595年
加藤嘉明はが伊予国正木へ転封後、志知城は秀吉の直轄地となり、代官に三宅丹波守・石川
紀伊守光遠を置いたが、大日川河口に叶堂城を築いて移り、志知城は廃城となる。

【所感】志知城跡は、北の県道477号線〔うずしおライン〕、西の県道31号線〔淡路サ
ンセットライン〕、東から南へ回り込む大日川に囲まれた微高地に在ります。国土地理院で
見ると、本丸の周りに内濠、外側に大日川へ流れ込む細い川〔外濠〕が囲んでいます。現地
の縄張図では内濠に囲まれた地を二分して本丸・二の丸とありますが、最新の縄張図では全
体を本丸としています。古地図では北西に天守、北東に櫓があったようですが、畑地として
改変を受けているため、その痕跡は見当たりません。本丸の北が裏門、南東が表門。本丸か
ら声明寺行く途中、表門〔本丸南東〕近くに石組の井戸跡が在りますが、いつの時代のもの
か不明です。





北から見た志知城跡



志知城跡入口横の城跡看板



城跡北西の内濠



城跡入口・裏門



志知城跡碑・本丸



本丸の様子・本丸



史蹟 志知城趾碑・本丸



西側竹林内の段差・本丸



志知城跡碑・本丸



井戸跡・本丸



城跡北側の外濠跡