陸奥 七戸城
shichinohe castle
七戸城跡・柏葉公園【青森県上北郡七戸町七戸・貝ノ口・城ノ後】
七戸神明宮【青森県上北郡七戸町七戸2】
七戸町役場柏葉館【青森県上北郡七戸町七戸22−8】
【立地】平山城
【別称】柏葉城・七戸要害屋敷
【国指定史跡】七戸城跡
【歴史】1334年以前、工藤右近将監、伊達行朝、結城七郎左衛門尉らの領地であったが
、1335年3月南部師行の弟で根城5代城主南部政長の所領となる。1348年根城6代
城主信政は京都付近の戦いで討死、1350年政長が没する。根城7代城主南部信光〔兄〕
・8代城主南部政光〔弟〕の所領は甲斐国の波木井・八戸・七戸であったが、1393年政
光は本拠を八戸〔根城〕へ移し、信光の子長経が成長して根城9代城主となってから七戸へ
退き、七戸南部氏の祖となる。城は代々政光の子孫によって護られてきたが、1456年田
名部の蛎崎蔵人の乱、1483年宗家三戸南部氏御家騒動で落城している。1591年九戸
城主九戸政実が三戸の南部信直に叛した時、七戸の南部家国は九戸政実と結ぶが、羽柴秀次
の奥州仕置軍に滅ぼされ、七戸南部家は断絶した。1592年秀吉の諸城破却令で七戸城も
対象となり、宗家の三戸南部信直の直轄地となったが、津軽氏に対する重要な城であった為
、浅水城主南部直信義の三男直勝を入城させた。直勝は後に七戸氏を名乗り、1597年直
勝の長子七戸直時は2300石を得る。1646年直時は嫡子を亡くして病没した為、16
47年七戸南部家は27代南部利直の五男重信が継いだ。1664年重信は南部宗家29代
に抜擢され、七戸は南部藩の直轄地となり、七戸城内に代官が置かれた。盛岡藩3代藩主南
部重信の次男政信は、1694年兄の盛岡藩4代藩主行信より5000石を分与され、旗本
となって江戸麹町に屋敷を構えた。1746年信彌−1750年信伝−1756年信喜を経
て、1819年信隣は盛岡藩10代藩主利敬より七戸領6000石を分与され、1万100
0石で七戸藩〔盛岡新田藩〕を立藩。信隣は定府の大名であったが、宗家藩主を後見するた
め、盛岡へ。1858年次の信誉は北方警備の功績で城主格となったが、築城には至らず、
陣屋を構えた。1868年「戊辰戦争」の際、7代信民は奥羽越列藩同盟に加わった為、1
000石減封、家督を信方に譲って隠居した。1869年信方は七戸藩知事に任ぜられ、1
871年廃藩置県、七戸県から弘前県を経て、青森県に編入され、1873年廃城となる。
七戸城は元来、蝦夷館であったが、鎌倉時代、工藤氏によって改修され、更に南北朝時代の
南部氏を経て、南部重信の頃に完成したとされる。1941年国の史跡に指定され、現在、
柏葉公園となり、曲輪、土塁、水堀、空堀などが残る。
【所感】七戸城跡は、角館・西館・宝泉館、北館・二の丸・本丸・下館などの曲輪から構成
されており、本丸・二の丸に土塁・堀、館間にも堀が残っています。雨が降ったり、晴れた
りの天候不順で城域全体の8割程しか回れず、消化不良の訪城となってしまいました。三戸
城跡も行きたいので、合わせて再訪を考えています。車は七戸町役場柏葉館横の駐車場に駐
めました。
下館・旧七戸幼稚園
宝泉館
宝泉館−西館間の空堀
西館
角館
北館
二の丸南西の水堀
二の丸(運動広場)と二の丸西端の土塁
大豆蔵跡・展望広場・二の丸
馬場跡・芝生公園・二の丸
高田家屋敷跡・児童公園・二の丸
福士家屋敷跡辺り・休憩所・二の丸
本丸東端の土塁と堀跡
七戸城阯の石碑・本丸
七戸神明宮・本丸
姫塚
復元 七戸城東門