肥前 島原城
Shimabara castle

    島原城跡【長崎県島原市城内1丁目1183-1】
  島原文化会館【長崎県島原市城内1丁目1177-2】
島原市森岳公民館【長崎県島原市城内1丁目1177】
   日野江城跡【長崎県南島原市北有馬町戊】
    浜の城跡【長崎県島原市新町1丁目】

【立地】平城
【別称】森岳城・高来城
【天守の構成・形式】独立式層塔型天守

【市指定史跡】
【県指定史跡】

【歴史】鎌倉時代から島原半島を領有した有馬氏は戦国期に日野江城を居城とし、キリシタ
ン大名で知られる有馬晴信は豊臣秀吉から半島一帯と長崎浦上領4万石を安堵された。15
92~1598年「文禄・慶長の役」に出陣し、1600年「関ヶ原の戦い」では家康に従
った。1612年晴信自害後、嫡男直純が継ぐが、1614年日向国延岡藩へ転封となり、
島原に於ける有馬氏の支配は幕を閉じた。一時、天領となったが、1616年大和国五条か
ら松倉重政が4万石で入封、6月日野江城へ入り、12月島原の浜城へ移った。1618年
島原城の築城が始まり、1624年竣工。1636~1637年大凶作が重なり、2代勝家
の圧政と凶作に耐えかねた天草島民ら3万5000人が、1637年12月天草四郎時貞を
総大将に「島原の乱」を起こした。1638年4月鎮圧に至ったが、この戦の責任を問われ
た勝家は除封、遠江国浜松から譜代大名高力忠房が4万石で入封した。忠房は「島原の乱」
で荒廃した農村を復興することに意を注いだが、1655年12月に没し、次の隆長は農民
の反発を招く失策により、1668年所領没収、陸奥国仙台藩にお預けとなった。1669
年丹波国福知山から深溝松平忠房が6万5900石余で入封、領内の農村や町方の統治組織
の整備と統一を図り、検地や宗門改めなどを行った。その後、忠雄-忠俔-忠刻と続き、1
749年忠刻没後、次の忠祇が幼少で病弱であった為、下野国宇都宮へ転封となる。宇都宮
から戸田忠盈が7万7000石余で入封、1754年弟忠寛が襲封、1774年旧領宇都宮
へ再転封となった。深溝松平忠祇の嫡男忠恕が島原6万5900石へ再入封。1792年雲
仙岳の大噴火で地震・前山の爆発・津波などにより、島原に加え、肥後国も被害に見舞われ
、死者は1万人以上になったと云う。1792年忠恕が没し、襲封した忠馮は直ぐに災害復
旧、藩財政の立て直しに努め、1793年藩校稽古館を創設した。1821年次の忠候は島
原城内に医学校と病院を兼ねた済衆館を創設。忠誠-忠精-忠淳と続き、忠和は徳川慶喜の
弟であったことから、1864年・1866年「長州征伐」では幕府方として参戦したが、
1868年「戊辰戦争」では新政府軍に従って奥羽に出兵し、戦後5000両を下賜された
。1869年版籍奉還して知藩事に任ぜられ、1871年は廃藩置県を迎えた。1960年
西の櫓、1964年天守、1972年巽櫓、1980年丑寅櫓・時鐘楼・長塀が復元され、
2006年日本100名城に選定。現在は曲輪、石垣、堀などが残る。

【所感】長崎遠征最初の訪城先です。石垣に支持された本丸・二の丸、それらを囲む堀が良
く残ってます。建物も天守以外に乾三重櫓・西三重櫓・丑寅三重櫓や塀が築かれ、往時の雰
囲気を出しています。この後、原城跡に行きますが、歴史を書く時、「島原の乱」というワ
ードが欠かせない地域です。




五重五階 天守

 

西三重櫓〔写真:左〕巽三重櫓〔写真:右〕



丑寅三重櫓



巽三重櫓と島原湾



西三重櫓と七面山



本丸





本丸の石垣と堀



本丸東側の堀



本丸から見た二の丸



二の丸から見た本丸