河内 下赤坂城
Shimo Akasaka castle

            下赤坂城跡【大阪府南河内群千早赤阪村森屋・東阪】
          千早赤阪村役場【大阪府南河内群千早赤阪村水分180】
          千早赤阪中学校【大阪府南河内群千早赤阪村東阪25】
        赤坂村立郷土資料館【大阪府南河内群千早赤阪村水分266】
老人福祉施設いきいきサロンくすのき【大阪府南河内群千早赤阪村二河原邊8−1】

【立地】山城
【別称】楠木館・赤坂城・赤阪城

【国指定史跡】赤阪城跡

【歴史】1331年、標高165m〔本丸跡〕、比高20mの丘陵上に楠木正成(?〜13
36年)が築いた城である。後醍醐天皇が笠置山に遷幸の時、笠置山が危うくなった際に天
皇を迎えるために築いたが、9月28日笠置が落ち、後醍醐天皇は楠木館に赴こうとしたが
、途中で捕らえられ、正成は護良親王〔後醍醐天皇の第一皇子〕を奉じて当城に拠った。笠
置を落とした鎌倉勢はその勢いで下赤阪城へ進軍。下赤阪城は造りが甘い上、衆寡敵せず、
10月21日夜、正成は暴風雨に乗じて城に火を放ち、護良親王らと共に金剛山中に隠れた
。1332年4月正成は再起して鎌倉方の湯浅定仏を奇襲、再び、下赤阪城を奪回した。1
333年再び鎌倉勢によって落城となるが、5月22日新田義貞によって鎌倉幕府が滅亡す
る。正成戦死後、正儀らがこの城に拠った。1360年4月29日龍泉寺・平右両城が落ち
た時、正儀も城を捨てて金剛山中へ退いた。現在は田畑、草木となり、石碑のみが立ち、遺
構は無い。

【所感】『赤坂城阯碑』は千早赤阪中学校体育館西側に位置し、中学校からは行けない為、
富田林消防署千早赤阪分署裏の道を700m程北進することになります。土塁のような盛り
土の上に城阯碑、裏側に『赤阪城跡の看板』が立っています。ここは『下赤阪の棚田』の場
所でもあり、車が2、3台止められます。本丸は赤坂城阯碑から更に650m程北進した左
の台地上、『下赤坂城本丸址碑』が道から見える場所に立っています。国指定史跡で、歴史
的に重要な場所ではありますが、縄張も遺構も確認出来ないほど変わり果てた姿に寂しさを
感じます。郷土資料館の横に『楠公誕生地』、『楠公産湯の井戸』は老人福祉施設いきいき
サロンくすのきの東に入口がありますが、現在は立ち入り禁止になっています。




史蹟 赤坂城阯碑



下赤坂城本丸址の石碑



国史跡 赤阪城跡(下赤坂城跡)の看板



赤阪城址碑〔赤坂城阯碑への道は通行止〕・千早赤阪中学校坂道



赤坂城阯碑へ向かう道



楠公誕生地・赤坂村立郷土資料館



楠公産湯の井戸〔立ち入り禁止〕